ソビエト権力の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:50 UTC 版)
冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第3軍団長ピョートル・クラスノフの協力をとりつけ、その軍によって10月26日にペトログラードへの反攻を開始した。ペトログラード市内でもエスエルやメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。 モスクワでは10月25日に軍事革命委員会が設立され、ペトログラード軍事革命委員会を支持した。一方で、26日に臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられ、無視できない軍事力を有していた。10月27日に双方の武力衝突が起こり、激しく戦闘した。11月2日に社会保安委員会は敗北に追い込まれ、和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日に、ソビエト権力の樹立を宣言した。 ボリシェヴィキは憲法制定会議選挙で社会革命党に敗れ、第2党の地位に留まった。11月28日以後にボリシェビキは、カデットの指導者や社会革命党のアフクセンチェフを逮捕し、憲法制定会議を強制的に解散した。 ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。 ボリシェヴィキ主導の権力奪取は、ロシア帝国の他の部分でも徐々に進んだ。ヨーロッパ・ロシアの北部と中部でソビエトへの移行が進み、モスクワやロシア南部は戦闘が起こったものの短期間で収束した。1918年初頭までに各都市はソビエトの支配下に置かれている。 ロシア人以外の民族が多数派を占める地域は、二月革命の後に相次いで独立宣言を行ったり独立への動きを見せてソビエトへの移行は進まなかった。ウクライナでは、ウクライナ中央ラーダが1917年6月10日に自治を宣言し、11月7日には中央ラーダはロシアとの連邦を前提とするウクライナ人民共和国の創立を宣言した。これによりペトログラードのボリシェヴィキ政府(ソヴナルコム)と対立を深め、12月の赤軍のウクライナ侵攻を発端に全面的な武力衝突へ至り、1918年1月にウクライナはロシアからの独立を宣言した。エストニアでは1917年11月28日に議会が独立を宣言した。ヤーン・アンヴェルトのボリシェヴィキ派勢力は、12月8日にレーニンのソヴナルコム政府を承認したが、その勢力は首都タリンの周囲しか把握していなかった[要出典]。アゼルバイジャンのバクーのソビエトを除けば、南コーカサスでも反ソビエト勢力が優勢であった。
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