セミノール戦争における黒人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 16:09 UTC 版)
「ブラック・セミノール」の記事における「セミノール戦争における黒人」の解説
アメリカ合衆国建国の時から、フロリダの武装した黒人共同体の存在は、アメリカ人の奴隷所有者にとって主な心配事であった。奴隷所有者たちは、アメリカ合衆国憲法の採用の後で批准された最初の条約であるニューヨーク条約 (1790年)で、フロリダの黒人の逃亡者の返還を望んだ。アンドリュー・ジャクソン総督は、1816年、ブラック・セミノールの要塞、ニグロ・フォートへの攻撃を指揮し、フロリダのマルーンの共同体を標的にした。マルーンの共同体を破壊することは、それに続く第一次セミノール戦争(1817年〜1818年)での、ジャクソン総督の主な目的のひとつだった。 第二次セミノール戦争(1835年〜1842年)では、ブラック・セミノールとアメリカ合衆国の間の緊張が高まり、黒人とセミノールの同盟の歴史的なピークを迎える。この戦争は、インディアン移住の政策の下、フロリダの4000人のセミノール・インディアンと800人のブラック・セミノールの一部を、西部のインディアン準州に移住させようという、アメリカ合衆国の取り組みから生じた。この戦争以前に、少なくとも100人のブラック・セミノールについては、逃亡奴隷として、白人市民から返還を要求されていた。これら100名を奴隷にする直接的な試みを恐れ、また、さらに多くの共同体のメンバーを奴隷にする試みを予期して、ブラック・セミノールらは強制移住に対して強く反発した。戦前の協議では、彼らはオシオーラ(Osceola)によって導かれたもっとも好戦的なセミノールの一派の支持に回った。戦争が勃発した後には、ジョン・シーザー、エイブラム、ジョン・ホースといった個人の黒人指導者が重要な役割を担った。闘争でインディアンを支援することに加えて、ブラック・セミノールは、開戦直後に少なくとも385の大農園の奴隷の反乱を共謀した。奴隷たちは、1835年12月25日から1836年の夏を通じて、インディアンとマルーンによる21の砂糖の大農園の破壊活動に加わった。これを、アメリカ合衆国の歴史上、最大の奴隷反乱と記述する学者もいる。
※この「セミノール戦争における黒人」の解説は、「ブラック・セミノール」の解説の一部です。
「セミノール戦争における黒人」を含む「ブラック・セミノール」の記事については、「ブラック・セミノール」の概要を参照ください。
- セミノール戦争における黒人のページへのリンク