ジルの所領を巡る争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 04:07 UTC 版)
「ジャン5世 (ブルターニュ公)」の記事における「ジルの所領を巡る争い」の解説
1431年になり、再びヨランドがジャン5世をフランス側へ戻すべく交渉を開始した。この交渉に携わったのはヨランドの老臣ジャン・ド・クランと孫のジル・ド・レで、ブルターニュとフランスは2月に和平を結び、8月にジャン5世の長男フランソワとヨランドの同名の娘ヨランドが結婚、翌1432年にブルターニュとフランスとの間で同盟が結ばれ、ジャン5世はフランスとの協力姿勢に戻った。1433年に宮廷に復帰したリッシュモンがヨランドと協力してクーデターを敢行しラ・トレモイユを追放、宮廷の主導権を握ったため、以後フランスはブルゴーニュとも和睦、対イングランド戦略で領土回復に邁進していった。 その頃、ジルはアンジューとブルターニュに跨る広い領土を持っていたが、膨大な浪費でそれらを借金の帳消しに売り払っていた。乱脈を憂いたジルの弟ルネとアンドレ・ド・ラヴァルらジルの実家のラヴァル家一族は1435年にシャルル7世に頼んでジルを禁治産者に指定、彼が所領を売買出来ないように取り計らった。だが、ジャン5世はブルターニュにあるジルの領土を欲しがっていたため、構わずジルと売買交渉、1435年と1437年に土地を購入した。ラヴァル家は憤慨してジルの領土を攻撃し始め、アンジュー公ルネ・ダンジューも介入して来るにおよんで、不安に駆られたジャン5世はジルを懐柔すると共に、調停に乗り出したリッシュモンの仲介を受け入れ1438年に紛争は収まった。 しかし、1440年5月にジルが教会で暴行事件を起こすと、家臣ジャン・ド・マレストロワを派遣してジルを捕らえ9月に裁判にかけ、10月に異端の罪で処刑した。裁判ではブルターニュの官僚が取り仕切り、ジルが犯したとされる少年誘拐および大量殺人はほとんど誇張・捏造の疑いが見られ、ジャン5世が裁判後にブルターニュ領内にあるジルの所領を没収していることから裁判の正当性に疑問が持たれている。また、事前にリッシュモンを呼び出してシャルル7世の干渉が無いか確かめ、協力のお礼に彼へジルから譲られた土地の一部を提供している。 ジャン5世は父と異なり温厚な平和的な性格で、ブルターニュ継承戦争を完全に終結させることに成功した。ジャン5世は常備軍とブルターニュにおける税制により、ブルターニュ公としての権威を保った。芸術と教会の後援者でもあり、いくつかの聖堂の建造を支援した。 ジャン5世は常に弟リッシュモンの有力な支援者であった。リッシュモンがイングランドの捕虜となると(結果的には解放されなかったものの)身代金を用意し、後にフランス元帥となったリッシュモンの常備軍の要であるブルトン兵を提供した。結果的にそれがフランス王シャルル7世の常備軍の基礎となり、フランス王権の強化の遠因となる。また、親仏反英の姿勢を貫いたリッシュモンの影響を受け、一貫してフランスに好意的中立を保ち、後にフランス陣営に参加する。しかし、ブルターニュの半独立の姿勢を貫くことでは兄弟一貫していたため、ブルターニュ公領外の封建領についてはフランス王に単純臣従を行ったが、ブルターニュ公位については名目的臣従の姿勢をとった。 1442年、52歳で死去。リッシュモンの後見の下にブルターニュ公位及びモンフォール伯位は嫡男のフランソワ1世が継ぎ、1450年にフランソワ1世が後継者なく死亡すると次男のピエール2世が継いだ。しかし、1457年にピエール2世も息子が無く死亡するとリッシュモンがブルターニュ公アルテュール3世となったが、1458年にやはり後継者が無いまま死去、最終的に甥で末弟リシャールの遺児フランソワ2世がブルターニュ公位を継いだ。
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