ジョージ・ハリスンに対する冷遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 07:44 UTC 版)
「ビートルズの解散問題」の記事における「ジョージ・ハリスンに対する冷遇」の解説
非凡な才能が結集したビートルズにおいてハリスンの立場は非常に厳しいものであった。初期のころは天才メロディメーカー「レノン=マッカートニー」の陰に隠れ、自分の実力を十分に発揮出来ず(アルバム1作につき、ハリスンの曲は多くても3曲程度までしか採用されなかった。ただし、この事実については『アンソロジー』の中でハリスン自身が、「あの頃の僕は気持ちとソングライティングの実力が伴っていなかった。最初の頃の曲は(後期に作った曲と比べると)全然だね」という発言をしており、曲作りにおけるビートルズ前期の頃の実力不足を自ら認めている)、寡黙な性格などからメンバーの中では一番目立たず「Quiet Beatle(静かなビートル)」と呼ばれていた。しかし、ハリスンの実力は後期になるにつれて少しずつ開花していき、インド音楽への接触、それに伴うシタールをはじめとする新しい楽器の導入など、独自の世界観を構築することに成功し、その作曲能力はレノン=マッカートニーに匹敵するまでになる。 にも関わらず、後期においてグループ内で最も発言力を有していたマッカートニーは彼の能力を軽視し、演奏に何回も注文をつけたり、自由な作品発表の場を与えずにいた。また、レノンもビートルズがライブ活動を止め、スタジオ活動しかしなくなったことに強い不満を持っており、スタジオ活動を重視していたハリスンとの間に溝が出来ていた。 なお、プロデューサーのジョージ・マーティンですら、ハリスンの実力を軽視していたところがあった。マーティンは「ジョンとポールはお互いに切磋琢磨しながら曲を作ることが出来たが、ジョージにはそういうライバルがおらず、一人きりだった」と述べている。「『ゲット・バック・セッション』の際には、ジョンもポールも自分の曲のギターパートを全て自分で作ろうとしていたために、ジョージは欲求不満であった」とスターは述べている。しかしハリスンは、ジョンのプラスチック・オノ・バンドやアルバム『イマジン』のレコーディングに参加しており、ジョンとの和解は比較的早かったようだ。 一方、マッカートニーとの関係はその後もなかなか修復されることはなく、ハリスンは、後年のインタビューにおいて「ポールとは友人としては問題ないが、音楽上の共演は難しい」と述べている。 ビートルズ解散直後でも、メンバー同士がセッションやプライベートで会った記録は数多くあるが、マッカートニーとハリスンが会った記録はあまり残っていない(『想いは果てなく〜母なるイングランド』『ディス・ワン』も参照)。
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