ジェリー・アンダーソンとの共同製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 01:46 UTC 版)
「シルヴィア・アンダーソン」の記事における「ジェリー・アンダーソンとの共同製作」の解説
ノディのCMを観た作家ロバータ・リーから自身の作品の映像化を依頼されると、1957年夏にジェリー・アンダーソンとアーサー・プロヴィスは新会社APフィルムズを立ち上げた。ここでシルヴィアは母親に借りた100ポンドを出資金に美術スタッフのレッジ・ヒルとカメラマンのジョン・リードとともに会社の株主となり、そして取締役と同等の権限も与えられていた。ここでロバータ・リーの作品『ジ・アドヴェンチャー・オブ・トゥイズル』や『トーチー・ザ・バッテリー・ボーイ』を原作としたテレビ番組の製作を製作することとなり、シルヴィアは製作補佐としてこの番組製作に参加しすることとなった 。彼女は製作業務においてより幅広い役割を果たすこととなる。 シルヴィアとジェリーの二人はチームとして一緒に働き、番組制作時には毎回第一話を共同執筆および共同製作し、その後に各自が得意とする分野にそれぞれ取り掛かった。シルヴィアが登場人物・声優・衣装・会話・プロットラインを、それに対してジェリーが特殊効果とハードウェアを、専門とする傾向があった。 こうしてシルヴィアは『スーパーカー』、『宇宙船XL-5』、『スティングレイ』の三本の30分番組を、構想の面と台詞の面で貢献した。しかし、彼女は30分番組では登場人物の設定や物語をふくらませるのに不十分であると感じ、1時間に拡大するようプロデューサーのルー・グレイドを説得した。 1960年代前半、アンダーソン夫妻は『サンダーバード』のシリーズを共同で製作し、シルヴィアはキャラクターを担当した。彼女はグレイドがこの番組をアメリカに売りたがっていること、そしてそのためにはアメリカの視聴者にアピールできるような番組にしたいと考えていることに気がついていた。そこでイギリスの貴族のレディ・ペネロープと彼女の下町訛りの運転手のパーカーの二人を生み出した。 レディ・ペネロープ・クレイトン=ワードは元覆面捜査官のファッションに敏感な貴族で、シルヴィアの生み出したキャラクターで最も有名な人の一人となった。またシルヴィアはレディ・ペネロープのキャラクターを生み出しただけでなく声も担当した。APフィルムズ社で人形製作を行った人形師メアリー・ターナーはレディ・ペネロープの人形を作る際にシルヴィアの特徴を元にしたが、シルヴィアはすぐには気が付かなかった。1968年『デイリー・ミラー』紙が行ったインタビューでターナーは「魅力的なブロンド〔のモデルとなる人〕を求めていて、〔シルヴィアは〕その当然の人だった」と答えている。 『サンダーバード』の撮影が第5話まで完了した1964年の終わり、シルヴィアはレディ・ペネロープが顔を見せる話がないという指摘を受け、彼女の設定を膨らませた。そこで完成したのがデニス・スプーナーの書いた「死の大金庫」であった。その後アラン・パティロの「ベネロープの危機」、アラン・フェネルの「情報員MI.5」、トニー・バーウィックの「恐怖の空中ファッションショー」などレディ・ペネロープとパーカーが登場し大活躍する話が増えることとなった。 その後、1966年と1968年にはテレビシリーズを元にした映画『サンダーバード 劇場版』と『サンダーバード6号』を製作した。 彼女は共同原案者のジェリー・アンダーソンとともに『謎の円盤UFO』(1969–70)を共同制作し、ここでは番組の衣装の責任者となり、キャスティングの大部分を行った。衣装は「センチュリー21ファッション」製作と毎回オープニングにクレジットされているがシルヴィアがほぼ全てを行った。 ジェリーとシルヴィアの製作上の関係が終わったのと同時に結婚生活も破綻したが、これは1975年の『スペース1999』第1期製作の時期であった。ジェリーは別れる意向を打ち上げパーティの夜に発表し、その後シルヴィアは会社との関係を絶った。この時点までに会社は2回改名し、当時はグループ・スリーの名であった。
※この「ジェリー・アンダーソンとの共同製作」の解説は、「シルヴィア・アンダーソン」の解説の一部です。
「ジェリー・アンダーソンとの共同製作」を含む「シルヴィア・アンダーソン」の記事については、「シルヴィア・アンダーソン」の概要を参照ください。
- ジェリー・アンダーソンとの共同製作のページへのリンク