ショックレー半導体研究所
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ショックレー半導体研究所(ショックレーはんどうたいけんきゅうじょ、英: Shockley Semiconductor Laboratory)は、かつて存在したアメリカの半導体開発、製造会社。
- ^ a b c d e f 「半導体の歴史─その6 20 世紀後半 集積回路への発展(1)」(PDF)『SEAJ Journal』第5巻第120号、2009年。
- ^ Riordan & Hoddeson 1997, p. 247
- ^ 10 Days That Changed History New York Times
- 1 ショックレー半導体研究所とは
- 2 ショックレー半導体研究所の概要
- 3 関連項目
ショックレー半導体研究所
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「ウィリアム・ショックレー」の記事における「ショックレー半導体研究所」の解説
カリフォルニア工科大学時代の友人が、自分の会社の部門としてショックレーの研究所を創設することを申し出てきた。1955年、Beckman Instruments がマウンテンビューに新たに創設した研究所をショックレー半導体研究所と名付け、ショックレーを所長に就任させた。その場所が中心となってシリコンバレーが形成された。彼がその場所を選んだのは母親の実家があるという理由であった。ショックレーの名声とベックマンの資金力を背景に、ベル研究所のかつての同僚を引き抜こうとしたが、誰も乗って来なかった。そこでショックレーは大学を卒業したばかりの優秀な人材を物色し始めた。 ショックレー流の経営とは、端的に言えば「支配と偏執性の増大」である。有名なエピソードとして、秘書が親指を切ってしまったことがある。ショックレーはそれが誰かの悪意によるものと思い込み、犯人を捜すために嘘発見器を使おうとした。実際にはオフィスのドアに壊れた画鋲の針だけが残っていたことが原因であることが判明し、研究スタッフとショックレーの仲は険悪になっていった。その間、新たな技術的にも難しい素子(「ショックレー・ダイオード」と名付けていたが、今ではサイリスタとして知られているもの)を作れという彼の指示があったが、プロジェクトの進捗は非常にゆっくりとしていた。 1957年9月、ショックレーがシリコンベースの半導体研究を打ち切ると決めると、8人の研究スタッフ(自ら "the Traitorous Eight" すなわち「8人の反逆者」を名乗っていた)が同研究所を辞めた。8人のうちの一部の者がフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツの経営者 Sherman Fairchild に会って状況を説明すると、同社の半導体部門としてフェアチャイルドセミコンダクターを創業することになった。後にインテルを創業したロバート・ノイスとゴードン・ムーアもその8人に含まれている。アドバンスト・マイクロ・デバイセズもフェアチャイルドセミコンダクター出身のジェリー・サンダースが創業している。ショックレー研究所やこれらの企業が核となってシリコンバレーが形成されることになった。 ショックレーが新たな半導体素子開発に取り組んでいたころ、フェアチャイルドとテキサス・インスツルメンツがそれぞれ独自に世界初の集積回路を開発した。ショックレーは何とか素子を完成させ、製造を開始したが、商業的には失敗に終わった。 1961年、ショックレーはハンス・クワイサーと共同で太陽電池の理論的な発電効率の限界を示す法則を発見し、ショックレー・クワイサー限界と呼ばれるようになった。 ショックレー半導体研究所は1960年に売却され、さらに1968年にITTに売却され、間もなく清算された。 現在ショックレー半導体研究所は、2015年3月からの工事により取り壊され、その跡地には大型洋服店の建設が計画されている。(2015年5月現在)
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