シュヴァーベン公フィリップとの闘争
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「オットー4世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「シュヴァーベン公フィリップとの闘争」の解説
1197年にハインリヒ6世が没した後、ハインリヒ6世の弟シュヴァーベン公フィリップは大多数の諸侯から金銭と引き換えにローマ王(ドイツ君主)即位の支持を取り付けた。シュタウフェン家に敵対する諸侯はヴェルフ家の人間をローマ王に擁立しようと試みたが、ハインリヒ獅子公の子の中で最年長のハインリヒは十字軍に参加してローマ帝国に不在であったため、弟のオットーがフィリップの対立王に選ばれた。反シュタウフェン家の立場をとるケルン大司教アドルフは、ライン地方の諸侯に働きかけてオットーを擁立し、1198年6月9日にヴェルフ家の支持者によってローマ王に擁立された。同年7月12日、オットーはアーヘンでケルン大司教アドルフより戴冠される。聖職者のうちケルン大司教のみがローマ王冠を戴冠できる権限を有しており、戴冠式はオットーの即位の正当性を証明する象徴として重要な意味を持っていた。しかし、帝権を示す標章はシュタウフェン家が所有していたため、戴冠式では模造品の標章で代用された。 オットーは養育者であるイングランド王リチャード1世の支援を受け、シュヴァーベン公フィリップはフランス王フィリップ2世と同盟していたため、オットーの即位はイングランドとフランスの衝突を引き起こした。 一方、教皇庁は一人の君主の下でローマ帝国と南イタリアのシチリア王国が統合されている状況が続いていることを憂い、ローマ帝国とシチリアの分離、中部イタリアにおける教皇権の回復を図っていた。教皇インノケンティウス3世は帝国の混乱に乗じ、アンコーナ、スポレート、ペルージャなどのイタリアの都市からハインリヒ6世によって配置された帝国の封臣を追放することに成功した。帝国の廷臣の追放と並行して、インノケンティウス3世はトスカーナで形成された反帝国の都市同盟(League of San Genesio)を支持し、同盟は教皇の保護下に置かれた。インノケンティウス3世は、貧しく支持者の少ないオットーは教会の傀儡に適した人物と考え、彼を国王候補に選んだ。インノケンティウス3世は教皇が持つ皇帝候補の適格性の審査権を主張して国王選挙に介入し、1201年3月にインノケンティウス3世はオットーを唯一の正当なローマ王として認め、ローマ王選挙における教皇の介入の先例を作った。教皇からの支援の見返りとして、同年6月8日にオットーは中部イタリアにおける教会の権利の保障、シチリア王国に対する教皇の封主権の承認、イタリア政策における教皇の意向の尊重を約束した。ボヘミア王オタカル1世は当初シュヴァーベン公フィリップを支持していたが、オットーはボヘミアからの支持も取り付けることができた。また、デンマーク王ヴァルデマー2世からの支持も、オットーの正当性をより強固なものにしていた。 しかし、シュヴァーベン公フィリップはオットーの支持者との戦闘で勝利を重ね、1204年にはケルン大司教からローマ王冠を戴冠された。同年にイングランドがフランスとの戦闘に敗れたため、イングランドからの資金援助を絶たれたオットーは苦境に陥り、兄のハインリヒを含めた多くの諸侯がフィリップに味方した。1206年7月27日にオットーはヴァッセンベルク(ドイツ語版)近郊の戦いでフィリップの軍に敗れて負傷し、教皇庁も内戦で優位に立つフィリップの支持に回った。フィリップは事実上のローマ王となり、オットーはブラウンシュヴァイク近郊の居城に退去を余儀なくされた。 インノケンティウス3世の仲介でオットーとフィリップはケルンで交渉を行い、フィリップはオットーにローマ王位請求権の放棄と引き換えに、フィリップの娘ベアトリクスとの結婚、シュヴァーベン公位、莫大な補償金の支払いを提示した。オットーはフィリップの提案を拒否し、再び内戦が勃発しようとしていたが、1208年6月8日にフィリップは個人的な怨恨が原因で暗殺される。
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