シオニストのリーダー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 20:39 UTC 版)
「ダヴィド・ベン=グリオン」の記事における「シオニストのリーダー」の解説
マルクス主義者でポアレ・ツィオンの創設者だったベル・ボロコフの死後、ポアレ・ツィオンは左派と右派に別れ、1919年にベン=グリオンは、彼の友人であり、労働シオニズムの右派勢力の指導者だったベルル・カツネルソンと共に。ポアレ・ツィオン右派はアフドゥト・ハアヴォダ(Ahdut HaAvoda)を立ち上げ、1919年にベン=グリオンはリーダーとなった。1920年12月には「ヒスタドルート Histadrut」(シオニスト労働同盟パレスチナ)を結成し、後にその書記長となって、イギリス統治下のユダヤ人社会での労働者の地位向上に注力した。また、自衛組織のハガナーの結成にも関わりアラブ人によるキブツの襲撃に軍事的に対抗した。 1930年にはヒスタドルートを基盤として、ハポエル・ハツァイル(Hapoel Hatzair、青年労働者、1905年にA. D. ゴードンにより創設された)と合同し、より労働党右派の傾向の増した「マパイ党 」を結成して政治的影響力を強め、ベン=グリオンは指導者となった。マパイは左派の機関だったが、他の派閥ほど左寄りではなかった。労働シオニズムの左派の代表としてはマパム(Mapam)があったが、労働シオニズム右派は世界シオニスト機構の議会において優勢化する傾向があった。1935年にはベン=グリオンはパレスチナのユダヤ機関の執行委員会の議長となり、役職は1948年のイスラエル建国まで続いた。 1936年から1939年にかけてのパレスチナでのアラブ人暴動の間、ベン=グリオンは『Havlagah』と呼ばれる、ハガナーやその他の集団に、アラブ人のユダヤ市民に対する攻撃への報復はせず、自衛に専念するよう呼びかける抑制政策を行った。 1937年のピール委員会において、パレスチナをユダヤ人とアラブ人の土地に分ける分割案が出されると、ベン=グリオンはこれを支持した。この判断は分割案に反対するゼエヴ・ジャボチンスキーとの論争を巻き起こし、結果としてジャボチンスキーの支持者らはハガナーから分離し、ベン=グリオンの政策を無視することになる。 イスラエル建国後、ブナイ・ブリスのジャボチンスキーをイスラエルの地に再埋葬する提案に対し、ベン=グリオンは1958年5月7日にブナイ・ブリスの副代表でテルアヴィヴ地方裁判所の判事だったヨセフ・ラムに「我が国は生者はともかく、死者を必要としてはいない。そして我が国に墓碑銘が増えることを歓ぶイスラエル人を、私は寡聞にして知らない」と手紙を書き送った。この願いはレヴィ・エシュコル首相の時代に達せられた。
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