シオニスト運動の指導者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 16:15 UTC 版)
「ハイム・ヴァイツマン」の記事における「シオニスト運動の指導者へ」の解説
1914年に第一次世界大戦が始まり、同年11月にイギリスがオスマン帝国に宣戦布告すると翌12月にヴァイツマンは友人のC・P・スコット(英語版)を通じてユダヤ人閣僚で後にイギリス委任統治領パレスチナの初代高等弁務官を務めるハーバート・サミュエルと接触することとなり、ヴァイツマンよりも熱烈なシオニストだったサミュエルに強い感銘を受けることとなった。さらに後の外務大臣のアーサー・バルフォアとの1906年以来の再会でシオニズムへの賛同を得て、後に首相となるロイド・ジョージとも面会した。また、ヴァイツマンはコルダイト火薬の原料として必要な大量のアセトンの安定供給に必要なバクテリア発酵法の工業化に成功して「発酵工業(英語版)の父」と呼ばれた。これは連合国の勝利に貢献してヴァイツマンはイギリス政府内で評価を高めた。 1917年11月2日、イギリスはバルフォア宣言でパレスチナでのユダヤ国家建設を約束し、1918年にはイギリス政府の後援で、シオニスト委員会代表としてパレスチナに向かい、テルアヴィヴのユダヤ人入植地を視察した。 1919年、パリ講和会議にて、アラブ民族運動の指導者で後にイラク王国国王となるファイサル1世との間でファイサル・ヴァイツマン合意に調印し、互いの民族国家建設のために協力することを約束した。これ以降、世界的なシオニスト運動の指導者となってゆく。 アラブの民族衣装を着ているヴァイツマン(左)とファイサル1世(1918年) エルサレムでハーバート・サミュエルと(前列左から四人目・1920年) 世界シオニスト機構大会でアインシュタインと(1921年) 英保護領トランスヨルダンのアラブ人指導者と(前列左から二人目・1933年) 1921年、世界シオニスト機構 (WZO) 代表に就いた。アメリカ合衆国を訪れ、アルベルト・アインシュタインとともに、シオニズム運動のための資金集めのキャンペーンを展開した。1925年、アインシュタインやバルフォアとともに、エルサレムのスコプス (Scopus) 山にヘブライ大学を創設した。また、死海のリン酸塩工場、ナハライム (Naharayim) の水力発電所の建設を助成した。その後起こった世界恐慌に対して、1929年、ユダヤ機関 (Jewish Agency) を設立した。 1931年には1度WZO代表を退き、研究生活に戻った。1934年、レホヴォトにダニエル・シーフ研究所(Daniel Sieff Research Institute、のちのヴァイツマン科学研究所)を設立し、「化学兵器の父」で名高いユダヤ人化学者でナチス政権下のドイツから逃れようとしたフリッツ・ハーバーを所長に招くもハーバーはパレスチナに渡る道中で死去したためにヴァイツマン自ら所長に就いた。しかし、翌1935年にはWZO代表に復職し、1946年まで務めた。
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