ザーメン・ぶっかけ・BUKKAKE
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:52 UTC 版)
「アダルトビデオ」の記事における「ザーメン・ぶっかけ・BUKKAKE」の解説
精液にこだわった作品、いわゆるぶっかけなどは特にBUKKAKE(発音は「ブッカキー」)として、SUSHIやSASHIMIのように海外でもある程度の定着が見られ、2005年頃、日本からメジャーリーグベースボールに渡った松井秀喜に対して、スタジアムではよくこの「BUKKAKE!」とのヤジが飛んだという。藤木はこれをアメリカのワルガキ共が知っている程度には定着しているものではないかと分析している。また、同書では英語版ウィキペディアのBUKKAKEの項目での、BUKKAKEがアメリカに持ち込まれた経緯についての記述にも言及している。これは藤木が確認した時点で若干の事実誤認があるものの、日本語版よりも詳細であったとしている。 なお、持ち込んだのは松本和彦、持ち込まれた作品は南口るみねの『'95決戦』。これは南口が100人分の精液を飲精する内容で、時期は1996年7月、ハリウッドでのポルノ物産展「Video Software Dealer Association」で上映された。あまりの内容にFBIは、これは虐待だと上映の中止を求めたと言い、これが話題となったらしい。 なお、日本におけるザーメンものの嚆矢はラッシャーみよしである。1980年代当時風俗ライターであったみよしが、ファッションヘルスなどで行われていた飲精という技術またはプレイを「ごっくん」と表現していた。1984年頃以降には雑誌『SPARK』(白夜書房)のグラビアですでにぶっかけが、それも白夜書房編集者有志である男性モデル数名全員がぶっかけるようなものがみられており、「ドピュドピュ」という擬音も用いられていた。 その後、1985年頃より村西とおる、豊田薫らにより「(フェラチオを含む)顔面シャワー」が定着する。そして1986年、雑誌『マスカットノート』12月号でみよしの顔射企画「ミルキー・ドールズ」が開始され、大ヒット。みよしは1988年、AV業界に転身する。初作品は1989年2月の『ダイナマイトスペルマ 藤沙月』であり、顔射は計7発であった。藤木(2011)によれば、はっきり顔射・ザーメンにのみに注目した作品は恐らくこれが業界初である。 その後みよしはドイツ人ポルノ女優「マンディ」の、口内射精された精液を5分も10分も口中で弄ぶというプレイに強い感銘を受け、更なるザーメンビデオを探求しはじめる。なお、当時としてはマニアックな題材であったため、当初は自主製作ビデオに近いかたちでの供給であった。しかしその後のAVの隆盛の結果、十分な市場を得るに至っている。 なお前述の松本は1994年にみよしと出会い、ザーメンAVショップ「ミルキーショップ エムズ」(のちエムズ・ビデオ・グループに発展)を設立。94年にはオリジナル作品『That's スペルマごっくんプリーズ』を発売、初作品ながら既に前半の20人フェラからのごっくん、後半の生本番6Pで、総射精回数27発に至っており、95年以降は射精回数も増え、トップブランドとなった。また、このジャンルの隆盛は業界に「汁男優」なる、射精だけを求められる職種を創設することとなった。
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