サルミへの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 06:34 UTC 版)
「ホーランジアの戦い」の記事における「サルミへの撤退」の解説
米軍が上陸した5日後の1944年4月26日に、飛行場などは連合軍の制圧下に入り、以後、連合軍は6月6日まで掃討戦を続けた。同じく4月26日、現地での先任指揮官であった第6飛行師団長心得稲田正純少将は、日本軍の残存兵力を西部ニューギニアのサルミ方面へ撤退させることを決断した。しかし、サルミまでの400kmの道は非常に険しく、途中には100以上の川を越えなければならなかった。渡河の際、体力の低下が激しかった将兵たちは、豪雨の影響もあり激流に流され、そのまま死亡する者も多かった。さらに、食料が著しく不足していた上にマラリアの感染者も多く、発熱して道に倒れたまま死んでいく者も多かった。そのためホーランジアとサルミ間の道は白骨化した死体が続く惨状となった。特にサルミのすぐ近くにあるトル川では第36師団による奪還作戦(後述)の邪魔にならないように撤退してきた兵士の渡河を阻止した。稲田少将の要請により一部の航空部隊の渡河が許されたがそれ以外の兵士は飢餓により次々と死んでいった。「命をトル川」とまで言われた。 ホーランジアにあった第18軍関係部隊の人員6600人の内、1-2ヶ月後にサルミに到着した者はわずかに約500人に過ぎなかった。海軍部隊は5月3日に米軍部隊と遭遇して全滅、遠藤司令長官も戦死した(死後、大将に昇進)。 (戦史叢書 22 によると、「ホーランジアからサルミに向かったのは第18軍部隊と第6飛行師団部隊を合わせて約7,000名で、10グループに分かれて4月26日~5月7日に出発。サルミの戦闘が小康状態になった6月下旬にサルミ地区で自活体制に入った第6飛行師団人員は約2,000名。」となっている。) 5月17日に米軍がサルミに上陸を開始すると稲田少将は第4航空軍再建のために空中勤務者13名と司令部要員37名だけを連れて海路でマノクワリまで撤退した。このため稲田少将は後日敵前逃亡の嫌疑で軍法会議にかけられ停職二ヶ月の処分となった。稲田少将が司令部要員のほとんどを連れて行ってしまったため現地の部隊では混乱が生じたが参謀の一人が現地に残って代わりの職務を果たした。 この稲田少将の撤退により元々雑多だったホーランジアからの撤退部隊は完全に統制を失い、少なからずの将兵がいわゆる“餓鬼道”の状態になり強盗殺人やカニバリズムが横行した。このためサルミ地区では撤退してきた将兵の銃殺処分が検討されたが隔離された上で自活ということに落ち着いた。
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