サルミ・ワクデ島の戦い
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「ニューギニアの戦い」の記事における「サルミ・ワクデ島の戦い」の解説
1944年6月中旬にニミッツ大将の指揮でアメリカ軍のサイパン島への進攻が予定されており、マッカーサー大将はこの作戦に協力するために必要な飛行場を確保することを目的として、ワクデ島とサルミの日本軍の飛行場を攻略することにした。しかし、精査してみるとサルミの飛行場は良好でなく、ビアク島の飛行場は良好であることが判明し、ビアク島も攻略することが決定した。この結果、サルミ進攻の目的はワクデ島の攻略を対岸からの砲撃で支援するためと、ワクデ島を占領した後にサルミの日本軍から島を砲撃されることを防止するためとなった。サルミ・ワクデ島地区は1943年12月に第36師団が到着し、これを基幹とする1万4,000名が守備していた。1944年5月17日、サルミ東方のマッフィン湾へ、アメリカ軍第6歩兵師団、第31歩兵師団(1個連隊欠)、第123連隊戦闘団、第158連隊戦闘団が上陸、翌18日にワクデ島へ第163連隊戦闘団が上陸した。 歩兵第224連隊石塚中隊を基幹とする800名のワクデ島守備隊は26日までに玉砕した。サルミ地区のマッフィン湾岸のローントリーヒル(入江山)では日本軍がアメリカ軍第158連隊戦闘団と激戦を繰り広げ、アメリカ軍に大きな出血を強いた。その後日本軍は後退して持久体制に入り、連合軍側も積極的な攻勢は行わずサルミ地区の兵力の配備を次第に縮小する中で終戦を迎えた。日本軍の当初の1万4,000名のうち生還者はわずか2,000名であった。
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