サルミエント政権下の大臣として(1868年-1874年)
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「ニコラス・アベジャネーダ」の記事における「サルミエント政権下の大臣として(1868年-1874年)」の解説
1868年10月12日、アルゼンチンの大統領としてサルミエントが就任し、この政権の下でアベジャネーダは、同日から1874年11月23日まで法務大臣および教育大臣となった。 アベジャネーダは、サルミエントの民衆教育に関する考え方に共感し、教育は民衆の間に民主主義を定着させるための真の基礎であると考えていた。在任中には、アルゼンチン初の教員養成学校が設立され、初等・義務教育制度が再編成された。 サルミエントは、深刻な社会経済の問題の解決に時間を割かなければならなかったため、教育改革を新任の大臣であったアベジャネーダに委ねることになった。サルミエントは、アベジャネーダの求める新しい教育の柱石に賛同し、全決定権をアベジャネーダに委ねることができた。アベジャネーダは共和国のすべての州に普通学校の設立および、初等教育機関・中等教育機関・大学のカリキュラムの刷新を推進した。当時、ブエノスアイレス、コルドバ、コンセプシオン・デル・ウルグアイ(スペイン語版)でしか受けられなかった中等教育を、共和国の全州に拡大することを目指して推進した。大臣在任中には、1868年以前の1000校に800校が追加された。生徒の数は全国で3万人から10万人に増えた。 サルミエントの任期満了が翌年に迫った1873年、アベジャネーダは大統領選への立候補を計画し始めた。サルミエント、アドルフォ・アルシーナ(スペイン語版)、フリオ・アルヘンティーノ・ロカ(スペイン語版)の支援を得て、コルドバで正式に立候補を表明し、幅広い支持を得た。トゥクマン出身の彼に投票で戦いを挑めるのは、前大統領のバルトロメ・ミトレ(スペイン語版)だけだったが、ミトレは内陸部の支持を得られなかった。 選挙戦の日々の運営に支障をきたし、大臣としての仕事がほとんどできなくなることを予期したアベジャネーダは、サルミエント大統領に辞表を提出した。サルミエントは国益のためであることを認識して、辞表を受け入れた。サルミエントは、アベジャネーダを後継とするのが自然と考え、選挙期間中は、その立候補を支持した。 翌1874年4月14日、大統領選が行われた。アベジャネーダはミトレに対しブエノスアイレス州、サンティアゴ・デル・エステロ州、サン・フアン州以外のすべての州で勝利をおさめ、アベジャネーダの大統領就任が決定した。
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