ゴンドワナの征服・ウズベクの反乱鎮圧
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「アクバル」の記事における「ゴンドワナの征服・ウズベクの反乱鎮圧」の解説
1564年、アクバルは横暴的だったフワージャ・ムアッザムを処刑したのち、ゴンドワナ地方(英語版)を征服するために軍勢を派遣した。この地方の征服は順調に進んだものの、ゴンドワナ太守のアーサフ・ハーンはこの地域に半独立的な権力を打ち立て、2万にも上る巨大な兵力を養うようになった。アクバルはこの地方が帝国の東南隅にあったため、これに介入しなかった。 だが、同年7月にマールワー太守に任命されていたアブドゥッラー・ハーンが反乱を起こした。帝国ではウズベク人は皇帝の家臣であったが、ティムール朝を滅ぼしたのも、祖父バーブルをサマルカンドから追いやったのもまたウズベク人であった。アクバルは自ら反乱の鎮圧に向かい、これにグジャラートに敗走させている。 1565年、ウズベク人の貴族ハーン・ザマーンとその弟バハードゥル・ハーンらの帝国東部で反乱を起こした。バハードゥル・ハーンは宰相解任後、ジャウンプルの任地にいた兄のハーン・ザマーンと合流していた。反乱の理由は互いの勢力圏の係争であり、アクバルの帝権は安定しなかった。このウズベク兄弟の反乱を機に、アクバルは帝国東部の統治を盤石にすることを決心し、みずからジャウンプルに向かった。 だが、ムヌイム・ハーンが間に入ったため決戦は回避され、両軍の間で和約が結ばれた。また、このとき帝国の権臣や大ジャーギールダールらの間でも二派に分かれていた。ゴンドワナ太守のアーサフ・ハーンは招集に応じてアクバルの陣営に赴いたが、戦利財宝を私蔵した罪を追及されるのを恐れた彼はハーン・ザマーンに保護を求めている。この一時的な和解はアクバルがハーン・ザマーンを倒す実力を保持していないことを意味していた。 帝都に戻ったアクバルは軍の指揮権や統制権などを強化するなど改革を行い、中央政府の強化に反発する東方のハーン・ザマーンら半独立勢力は恐れを抱き、1556年に反乱を再び起こした。この反乱はアクバルの帝権に反発する者たちが一大連合の性格を帯び、アフガニスタンを統治していた皇弟ミールザー・ハキームにインド侵略を持ちかけるなどして連携を取っていた。 アフガニスタンを統治していたミールザー・ハキームはパンジャーブに侵入してきたが、アクバルはこれを撃退した。その後すぐ、ドアーブ地方で別の皇族ら数名の反乱が起きたがアクバルはこれを破り、彼らはハーン・ザマーンとも折り合いがつかなくなり、流浪の末に各個撃破された。皇帝権力の上昇は皇族らの立場に変化をもたらし、臣従か反逆かの選択を余儀なくさせていた。 まもなく、ゴンドワナ太守アーサフ・アハーンが帰順すると、アクバルはウズベク兄弟の討伐に本腰を入れ、1567年に自らウズベク兄弟にいるマーニクプルを攻撃した。帝国軍は激流を渡ってハーン・ザマーンを襲って殺害し、バハードゥル・ハーンも捕えて処刑した。帝国軍はアラーハーバードやヴァーラーナシーにまで示威を行い、アワド地方一帯にその威令が行き届いた。 ここにウズベクの反乱は鎮圧されたが、アクバルの行った戦後処理は比較的緩やかなものであった。その例として、叛将の一人イスカンダル・ハーンは罪を免れ、もとのままのジャーギールを保証されている。また、ハーン・ザマーンのジャーギールはすべてムヌイム・ハーンに与えられ、彼はジャウンプルの太守となった。
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