アーサフ・ハーンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アーサフ・ハーンの意味・解説 

アーサフ・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/12 14:07 UTC 版)

アーサフ・ハーン

アーサフ・ハーン(Asaf Khan, 生年不詳 - 1641年6月12日)は、ムガル帝国の政治家、武将。宰相でもある。ムムターズ・マハルの父でもある彼は、娘婿シャー・ジャハーンの帝位継承に重要な役割を果たした。

生涯

アーサフ・ハーンとシャー・ジャハーン及び3人の皇子

1569年、アーサフ・ハーンはイラン人の貴族ミールザー・ギヤース・ベグの息子として生まれた。

1610年頃から、皇帝ジャハーンギールは病気の発作を起こすようになり、ムガル帝国の国政はアーサフ・ハーン、宰相たる父や妃である姉ヌール・ジャハーン、皇子のフッラム(のちのシャー・ジャハーン)握られていた[1]。アーサフ・ハーンは1612年に自身の娘ムムターズ・マハルをフッラムに嫁がせていた。

1627年10月28日、皇帝ジャハーンギールがカシミールからパンジャーブラホールへ向かう途中死亡した。ジャハーンギール死去の際、ヌール・ジャハーンは居合わせていたが、皇位継承者たるフッラムとシャフリヤールはその場に居合わせていなかった[2]

さて、ヌール・ジャハーンの弟アーサフ・ハーンもその場に居合わせていた。だが、彼は自分の娘ムムターズ・マハルをフッラムに嫁がせていたため、彼はフッラムがデカンから帰還するときを稼ぐため、傀儡の皇帝ダーワル・バフシュを擁立した[3][4]。その後、シャフリヤールの軍を破り、彼を捕らえた[5]。シャフリヤールに娘を嫁がせていたかヌール・ジャハーンは事実上失脚した。

1628年1月24日、フッラムはアーグラに入って「シャー・ジャハーン」を名乗り、2月14日に帝位を宣し、帝国の皇帝となった[6]。それに伴い、ヌール・ジャハーンの支持していたシャフリヤールをはじめとする多くの皇族が処刑された。

その後、デカンにいたフッラムにもこの知らせが届き、彼はアーサフ・ハーンにダーワル・バフシュらほかの皇子らの捕縛を命じ、デカンからアーグラに戻った。フッラムはデカンから帰還したのち、1628年1月19日に彼はリザー・バハードゥルという人物をラホールへ送り、アーサフ・ハーンはダーワル・バフシュとその弟グルシャースプを引き渡そうとした。

1641年6月12日、アーサフ・ハーンは死亡した。

脚注

  1. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  2. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.176
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216
  4. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、pp.175-176
  5. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215
  6. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216

参考文献

  • アンドレ・クロー; 杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年 
  • フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アーサフ・ハーン」の関連用語

アーサフ・ハーンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アーサフ・ハーンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアーサフ・ハーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS