后妃になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/16 13:56 UTC 版)
「ヌール・ジャハーン」の記事における「后妃になるまで」の解説
1577年5月31日、ヌール・ジャハーンことミフルンニサー・ハーヌムは、イランのサファヴィー朝の貴族であるミールザー・ギヤース・ベグの娘として、アフガニスタンのカンダハールで生まれた。その後、同年にミールザー・ギヤース・ベグはインドへと移住し、のち弟にアーサフ・ハーンが生まれた。 移住後、ミフルンニサー・ベーグムは絶世の美女に育った。なおかつ、彼女は頭もよく、教養が備わっており、さまざまな資質を持ち合わせた魅力的な女性となった。 やがて、ミフルンニサー・ハーヌムは父の公職の関係上、皇子サリームと知り合った。サリームは彼女を見たとき、その美しさに衝撃を受けたという。そののち、彼らは恋人同士となった。この知らせは皇帝アクバルのもとにも知らされたが、アクバルは彼らを結婚させることに反対し、誰か別の人物と結婚させるように勧めるようになった。 そのため、ミフルンニサー・ハーヌムは宮廷の高官シェール・アフガーン・ハーンと結婚した。彼もまたイラン系の貴族であり、ベンガルにマンサブとジャーギールを持つ人物であった。その後、彼らの間には1女ラードリー・ベーグムが生まれた。 だが、シェール・アフガーン・ハーンはその振る舞いによって、ベンガル太守クトゥブッディーン・コーカの不評を買い、彼らは仲が悪くなっていった。クトゥブッディーン・コーカがシェール・アフガーン・ハーンのもとに赴いていさめようとした際、シェール・アフガーン・ハーンは太守を殺害してしまった。クトゥブッディーン・コーカを殺した彼もまた、その場にいた衛兵に殺人者として処刑された。
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