后妃の出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 15:49 UTC 版)
『記紀』は欠史八代の后妃の出自についても記録を残している。この后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、磯城(師木)県主、春日県主、十市県主といった大和地方を本拠地とする県主(あがたぬし)家から出ている者が多いことである。 これらの県主家系はいずれも天皇家と比肩するような有力な氏族家系ではなく、大和地方という限られた一地方の小規模氏族から后妃が選ばれていることは、欠史八代の実在を論じる場合の有力な論拠とされた。代表的な『日本書紀』の研究者である坂本太郎は、欠史八代系譜が後代の創作であるならば有力な大豪族と皇室が結びつけられたはずであり、歴代の后妃が大和地方の小規模な豪族から出ていることは当時の天皇(大王)家がまだ一地方政権であったことを反映したものと考えられるとし、欠史八代系譜は信頼できると論じた。また、欠史八代の具体的な事績が伝わらないことについても、これを理由に系譜情報まで疑問視するのは飛躍していると主張し「八代の系譜をも古伝として尊重すべきだと考える」とも述べている。坂本に師事した井上光貞もまた、坂本の見解は十分に支持可能なものとしていた。坂本は『記紀』研究における第一人者であり、井上はその後継者とも位置づけられる人物であったため、彼らの見解の影響は大きかったものと見られる。 一方で、ここで見られる、磯城、十市、春日県主は、天武朝において連(ムラジ)姓を与えられた磯城県主を始めとして、7世紀後半から8世紀にかけて朝廷と緊密な関係を築いたことが確認される氏族である。また、県主家系とは別に欠史八代の后妃を出したことが伝えられている尾張連、および事代主神は壬申の乱(672年)において大海人皇子(天武天皇)側に立って功績があったことが伝えられている。7世紀における大和地方の県と皇室との密接な関係を窺わせるもう一つの事実は、天武朝前後期における皇族子女の名前である。古代の皇子・皇女の名前はしばしば養育を担当した乳母などの下級氏族の女性に由来していた。そして7世紀の皇族には大和地方の県の名を持つ人物がしばしば見られる。直木孝次郎はこれらの事実から、欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられることを論じた。
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