ムムターズ・マハル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/20 01:40 UTC 版)
| ムムターズ・マハル ممتاز محل  | 
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| ムガル帝国后妃 | |
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       ムムターズ・マハル
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| 出生 |  1593年4月27日 アーグラ  | 
    
| 死去 |  1631年6月17日(38歳没) ブルハーンプル  | 
    
| 埋葬 | タージ・マハル | 
| 配偶者 | シャー・ジャハーン | 
| 子女 |  ダーラー・シコー シャー・シュジャー アウラングゼーブ ムラード・バフシュ ジャハーナーラー・ベーグム ラウシャナーラー・ベーグム ガウハーラーラー・ベーグム (他4人の息子と3人の娘)  | 
    
| 父親 | アーサフ・ハーン | 
| 母親 | ディーワーンジー・ベーグム | 
| 宗教 | イスラーム教(シーア派) | 
ムムターズ・マハル(ヒンディー語: मुमताज़ महल Mumtāz Mahal, ペルシア語: ممتاز محل Momtāz-i Maḥal, 1593年4月27日 - 1631年6月17日)は、北インド、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの皇妃で、第6代皇帝アウラングゼーブの母。
宮廷の大富豪アーサフ・ハーンの娘で、本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーグム(ارجمند بانو بیگم Arjumand Bānū Bēgum)という。ムムターズ・マハルとはペルシア語で「愛でられし王宮の光彩」「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。
生涯
   1595年4月6日、ムガル帝国の貴族アーサフ・ハーンの娘として生まれる。 彼女の祖父はサファヴィー朝からの亡命貴族であったミールザー・ギヤース・ベグ(尊称イティマード・ウッダウラ)という人物で、その息子アーサフ・ハーンが彼女の父である[1]。ギヤース・ベグにはミフルンニサー・ベーグムという娘がおり、これがジャハーンギールの寵妃ヌール・ジャハーンとなった。ムムターズ・マハルはヌール・ジャハーンの姪にあたる[1]。
1612年、ジャハーンギールの皇子フッラム(のちのシャー・ジャハーン)と結婚する。夫に深く寵愛され、14人の子女をもうける[1]。うち、成年まで育ったのは男子4人と女子3人であり、この4人の男子が長男ダーラー・シコー以下、シャー・シュジャー、アウラングゼーブ、ムラード・バフシュである[1]。
夫が父帝ジャハーンギールや継母ヌール・ジャハーンと対立し、各地への転戦や逃避行中でも、これに付き従い苦楽をともにしたと伝えられている。
   1631年6月17日、シャー・ジャハーンのデカン遠征中、遠征先で第14子ガウハーラーラー・ベーグムを生んだあと38歳で産褥死した[1]。シャー・ジャハーンはその死を大いに悲しみ、彼女の廟としてタージ・マハルを建立し来世を弔った。
子女
- フルンニサー・ベーグム
 - ジャハーナーラー・ベーグム
 - ダーラー・シコー
 - シャー・シュジャー
 - ラウシャナーラー・ベーグム
 - アウラングゼーブ
 - アフマド・バフシュ
 - スライヤ・バーヌー・ベーグム
 - 氏名不詳
 - ムラード・バフシュ
 - ルトフッラー
 - ダウラト・アフザル
 - フスナーラー・ベーグム
 - ガウハーラーラー・ベーグム
 
脚注
参考文献
- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。ISBN 978-4-422-21520-4。
 - アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局〈イスラーム文化叢書〉、2001年。 ISBN 4-588-23803-5。
 
関連項目
- タージ・マハル
 - ムムタズマハル (競走馬) - 彼女の名にちなんで名づけられた名繁殖牝馬
 
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