コンラート4世4世の反モンゴル十字軍
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「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の記事における「コンラート4世4世の反モンゴル十字軍」の解説
大司教ジークフリートは世俗諸侯の助言を受け、ヘルフォルトでの集会後の4月25日に、モンゴル軍に対する十字軍を説く指示を公布した。マインツ大司教区、ケルン大司教区、トリーア大司教区、コンスタンツ大司教区、シボト大司教が修道士に説教を依頼したアウクスブルク大司教区、ストラスブール市で説教が行われた。『Annales sancti Pantaleonis』によると、ドミニコ会とフランシスコ会によってドイツ全土で十字軍が説教されたという。 5月19日、ジークフリートの助けを借りて、13歳のコンラート4世はエスリンゲンで集会を開き、そこで十字軍の誓いを立てた。この誓いは1241年11月11日までを期限とするものであったが、ベーラ4世は1241年から42年の冬の初めにモンゴル軍がドイツ方面に侵攻する計画があることを彼に警告した。コンラート4世はエスリンゲンでモンゴル軍に対抗する戦力を結集するために、ドイツ全土にラント平和令を宣言した。司教たちはドイツ全土でこの目的のために寄付を募った。 コンラート4世は7月1日にニュルンベルクに軍を集結させることを決定した。6月、教皇グレゴリウス9世はドイツの数人の司教に十字軍の宣教を促す手紙を出した。ハイリゲンクロイツ修道院の修道院長とウィーンのドミニコ会の院長もそれぞれの地方で十字軍を宣教するよう命じられた。6月19日、グレゴリウス9世はフリードリヒ公から受け取った手紙を参考に、ドイツとボヘミアの防衛のために、3日前にハンガリーのために出したものと同様に、正式な免罪符を発行した。 十字軍の誓いを立てて帝国軍に参加したことが知られている人々の中には、ブラウンシュヴァイク公オットー1世、ケルン大司教コンラート(英語版)、チロル伯アルベルト4世(英語版)、ウルテン伯ウルリッヒ、ヘルフェンシュタイン伯ルイなどがいる。これらの呼びかけに応えた諸侯の居住地が広範囲に広がっていることから、十字軍派遣の呼びかけがドイツ全土で広く行われていたことがわかる。一方、オーストリア公フリードリヒは6月13日付の書簡で、「暴風」と呼称するモンゴル軍とすでに交戦中であるため、十字軍には参加しないと述べた。 彼はコンラート4世に、ドイツにクロスボウを持ってくるよう依頼した。 また、シュヴァーベン、フランケン、バイエルン、ラインラントの騎士をオーストリアに、ザクセン、マイセン、チューリンゲンの騎士をボヘミアに移動させるよう助言した。 十字軍は予定通りニュルンベルクに集結し、7月16日にはヴァイデンまで進軍した。コンラート4世がボヘミアに向かって進軍していたのか、オーストリアに向かって進軍していたのかは不明である。この頃にはモンゴル軍がドイツを脅かすことはないことが明らかになったため十字軍は解散し、結局十字軍がモンゴル軍と接触することはなかった。十字軍の行動を示す最後の情報は、7月20日にチロル伯が発行した憲章である。 『Annales breves Wormatienses』と『Gesta Treverorum』によると、ヴォルムスの司教ランドルフを除いて、司教や王子たちは十字軍のために集めた金を自分たちの間で分け合っていた。コンラート4世のドイツでの摂政であるマインツのジークフリートが教皇派に離反したことが、コンラート4世が十字軍の終了を決定する直接的な原因となったと考えられている。十字軍はモンゴルとの戦闘には至らなかったが、『Annales sancti Trudperti』や『Annales Zwifaltenses』などは、モンゴル軍がヨーロッパから撤退したのは、ドイツ軍の威嚇によるものだとしている。ドイツやオーストリアの民族主義的な近代史家も、このような史観を支持している。実際には、モンゴル軍の本来の目的はキプチャク人を保護したハンガリー王を討伐することにあったので、ドイツには武力侵攻しなかったのだと考えられる。
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