コンタクトレンズの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 19:05 UTC 版)
「オットー・ウィフテルレ」の記事における「コンタクトレンズの開発」の解説
ウィフテルレは、生体と接し続けても問題のない素材を見つけるために、架橋性の親水性ゲル(ヒドロゲル(英語版))を合成する研究に専念していた。ウィフテルレは同僚のドラホスラフ・リム(英語版)の協力により、最大40%の水を吸収し、適切な機械的特性を持ち、透明なヒドロゲルの作成に成功した。これがポリメタクリル酸ヒドロキシエチル(英語版)(pHEMA) であり、1953年にリムと共同で特許を取得した。ウィフテルレはpHEMAがコンタクトレンズに適した素材ではないかと考え、ソフトコンタクトレンズに関する最初の特許を取得した。1954年に、この素材が初めて眼窩インプラントとして使用された。1957年にウィフテルレは、ポリスチレン製の型から約100枚のソフトレンズを製造したが、型からレンズを外すときに縁が裂けたり破れたりし、また、手作業による最終的な仕上げを必要とした。ウィフテルレはコンタクトレンズの改良のための研究を続けていたが、1958年の共産主義者による政治的粛清により、ウィフテルレをはじめとする研究者は化学技術研究所を去ることになった。 1957年にプラハで開催された「高分子化学に関する国際シンポジウム」を機に、チェコスロバキアの指導者は、国家的な合成ポリマーの研究センターを設立する必要性を強く感じた。1958年、チェコスロバキア科学アカデミー(英語版)の高分子化学研究所が設立され、ウィフテルレがその所長に就任した。当時、研究所の建物は建設中であったため、ウィフテルレは自宅で、ヒドロゲルをコンタクトレンズに適した形状にするための実験を行った。 1961年のクリスマスの午後、ウィフテルレは、子供向けの組み立てキット(メルクール(英語版))、息子の自転車についていたライト用の発電機、ベル用変圧器を使った自作の装置で、ヒドロゲルコンタクトレンズの製造に成功した。この装置では、材料を注入するための型やガラス管も全て自作した。自宅の台所に置いた装置で作成したレンズを自分の目に装着し、問題がないことを確認した。この試作機による製法を遠心成型法としてまとめ、数日後に特許申請書を書き上げた。一度に製造できる数を増やすため、蓄音機から取り出したより強力なモーターを使用し、メルクールを使っていくつかの新しい機械を試作した。この初歩的な装置を使って、1962年の最初の4か月間に、ウィフテルレは妻のリンダと共に5,500枚のレンズを作った。初期の実験用レンズは「ゲルタクト」(Geltakt) と呼ばれ、後期の量産型レンズは、製造した国営企業SPOFAの名をとって「スポファレンズ」(Spofalens) と呼ばれた。 1965年、 National Patent Development(NPD)がアメリカでのソフトコンタクトレンズの製造権を取得し、サブライセンスを受けたボシュロムが製造を開始した。1977年、Continuous Curve Contact Lensesなどが特許侵害訴訟を起こした。1977年5月、チェコスロバキア科学アカデミーは、裁判に負けた場合の責任を回避するためにコンタクトレンズに関する特許を売却した。特許侵害訴訟は、1983年にウィフテルレとNPDが勝訴した。
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