コロディオン法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:55 UTC 版)
1851年、フレデリック・スコット・アーチャー(英語版)がコロジオン法(湿式コロジオン法)を発明し、金属板に代わりガラス板を使ったネガ版を作る写真技術を導入した。これに先立ち、スロベン・ジャネス・プハールは1841年にガラス面へ写真を撮る技術を発明し、1852年7月17日、パリの国立農工商大学(?)で認知されている[要出典] 。 ガラス板によるコロジオン法はダゲレオタイプの鮮明さとカロタイプのネガポジ方式の複製可能性を併せ持っていた為、1850年代にはダゲレオタイプに代わり、肖像写真の主流になって行く。また印画紙のハロゲン化銀を凝結させるために卵白を用いた新しい印画紙、アルビュメン・ペーパーも開発され、その弱点であった退色し易さも漸次的に改良された。 コロジオン法を使った風景写真には、ギュスターブ・ル・グレイ(英語版)の作品のように光や水や空気感のうつろいの一瞬を捉えたものもある。この現れによって、写真における風景は静止したものから動きあるものへ変わっていったように見える。この頃から肖像写真ではない記録写真が現れ、一方でアマチュアらにより心情を反映した写真も撮られるようになった。 クリミア戦争で現像用馬車に乗って戦地を回ったロジャー・フェントン(英語版)や、アメリカ南北戦争でのマシュー・ブレイディ、アレクサンダー・ガードナー(英語版)、ティモシー・オサリバン(英語版)らによる報道写真も登場したが、この写真技術の感度では戦闘の激しい瞬間は写せなかった。その代わり物資の運搬風景、兵士たちの写真、戦いの舞台となった後の荒野やあちこちに横たわる戦死者などを撮影したが、これらは当時としては大きな反響を呼んだ。その他、植民地化や欧米の帝国主義の進出に伴い、開国したばかりの日本をはじめ欧米以外の世界の風景や風習がヨーロッパ人によって撮影されるようになった。 コロジオン法の普及により富裕層の中には自分で写真機を買う者も現れ、アマチュア写真家も多く出現した。ジュリア・マーガレット・キャメロンは絵画的な肖像写真を多数撮影し、数学教授で児童文学者のルイス・キャロルは多くの少女達の写真を撮影した。
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