ドイル・コナン(Conan Doyle)
1859年(安政6)、イギリスのエジンバラ生まれ。祖父のジョンは風刺漫画家。父のチャールズは挿絵画家。伯父のリチャードは風刺画家であり、「ポンチ」の編集者。大伯父のマイクルコナンは美術評論家。リチャードドイルは孫。ラッフルズの作家であるEWホーナングは義弟。
エジンバラ大学医学部卒。なお、ホームズのモデルはエジンバラ大学付属病院の外科部長ジョセフベル博士。
1879年(明12)、冒険小説「ササッサ谷の秘密」が「チェンバースジャーナル」に掲載。
医師業が流行らないので暇つぶしに小説に手を染め、1884年(明17)、「コーンヒルマガジン」に「ジェハバカクジェフスンの遺書」が無署名で掲載。ほかに「ブラックウッド」などの雑誌にも小説を掲載。
1886年(明19)、オーモンドサッカーが語り手を務め、Iシェリンフォードホームズが活躍する探偵小説を書き始める。これが、原型となり、ホームズものの第一作「緋色の研究」となる。
1887年(明20)、「緋色の研究」を「コーンヒルマガジン」に持ち込んだが断られ、「ビートンのクリスマス年刊」に発表。
1888年(明21)の歴史小説「マイカークラーク」はオスカーワイルドに褒められたが、1890年(明23)に完成させた「白衣団」は評判にならず。
1890年(明23)、「リピンスコット」誌の代表から依頼され、「四つの署名」を発表。同時に依頼されたのは、オスカーワイルドの「ドリアングレイの肖像」だった。
1891年(明24)からシャーロックホームズの短編を「ストランドマガジン」に連載し、大あたりをとる。
1892年(明25)、「シャーロックホームズの冒険」を刊行。聖書に継いで広く世界中で読まれる書物となる。
1893年(明26)には「最後の事件」でホームズを殺害し、再度、歴史小説に回帰するが、うまくいかず、再び、1903年(明36)に「空屋事件」でホームズを復活させる。
1894年(明27)、「シャーロックホームズの思い出」を刊行。
1894年(明27)、「唇のねじれた男」が「日本人」に「乞食道楽」として翻訳される。これがドイルの日本初翻訳である。
1899年(明32)、南陽外史により、「不思議の探偵」が翻訳される。
南ア戦争弁護論を展開し、1899年(明32)からは南ア戦争には従軍し、軍医としての功績が認められ、1902年(明35)にサーの称号が授けられる。さらにサレーの副総督に任命された。
1902年(明35)、「バスカヴィル家の犬」を「ストランドマガジン」に掲載。
1915年(大4)、「恐怖の谷」を刊行。
ホームズものの最後の作品は1927年(昭2)の「ショスコム荘」。晩年は心霊術の研究に没頭した。実際のオスカースレーター事件やジョージアダルジ事件には社会正義の観点から関わり、無罪弁護を行った。
自分自身は探偵作家として考えておらず、歴史小説作家をもって任じていたが、現在のように探偵小説が広く読まれるようになった功労者である。シャーロックホームズのファンの親睦団体は世界中で400を越すという。
1930年(昭5)、死去。
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