グロスター公との結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 21:53 UTC 版)
「ジャクリーヌ・ド・エノー」の記事における「グロスター公との結婚」の解説
1422年、ヘンリー5世の急逝によって、グロスター公は甥の幼王ヘンリー6世の護国卿となった。ジャクリーヌは自身の領土の回復を夫に願ったが、状況が変わってしまう。1424年、ジャクリーヌはグロスター公との子を流産する(生涯4度の結婚で唯一の子であった)。1425年1月、ヨハン3世が毒殺されたが、死ぬ前の1424年4月に善良公を相続人に指名したことで、大義名分を得た善良公がジャクリーヌの領地を含めたネーデルラントを巡りグロスター公と戦うことになった。 1424年10月、グロスター公は軍を率いてカレーへ上陸、北上してエノーを占領した。ところがブルゴーニュがイングランドの同盟国だったことから、イングランド・ブルゴーニュ間の政治的対立が同盟の決裂、ひいては百年戦争でのイングランドとフランスの戦闘で重大な躓きになることを恐れたグロスター公の兄ベッドフォード公ジョンがグロスター公の制止に動くと、彼は妻の抱える問題から距離を置くようになった。勝ち目のない戦いを続ける妻をグロスター公は見捨て、ジャクリーヌはモンスの攻城戦の後、ヘントの城で善良公によって逮捕された。 ジャクリーヌと彼女の領土に関心を失ったグロスター公は1425年4月にイングランドへ帰国し、妻の女官であったエレノア・コブハムを愛人とした。囚われの身であったジャクリーヌは、男装して幽閉先からの脱出に成功した。 グロスター公は1425年12月に、24隻の艦船、2000人の兵士を送り込んだ。ゼーラントの諸都市は抵抗の準備をしてなかったが、同盟を尊重するベッドフォード公から通報を受けた善良公が直ちにブルゴーニュ軍をゼーラントへ派遣、年が明けた1426年1月にイングランド軍はブルゴーニュ公軍の前にあえなく敗退し、ゼーラントを善良公が獲得した。1428年、教皇マルティヌス5世はジャクリーヌはいまだブラバント公ジャン4世と結婚しており、グロスター公との結婚は無効であるとした。これによって結婚の義務から解放されたグロスター公は、愛人エレノアと正式に結婚、ネーデルラント獲得を諦めた。 何の後ろ盾もなくなったジャクリーヌは、自分の領土の復活は不可能だと悟り、7月にデルフトで善良公との和議に応じた。彼女はエノー女伯・ホラント女伯・ゼーラント女伯の称号は保持したが、支配権は善良公に帰することとなった。また、ジャクリーヌが子供のないまま死んだ場合、善良公が伯位を継承するものと決められた。そして母と善良公、および3伯領の同意なしにジャクリーヌが結婚することを禁止した。 この条約により、ジャクリーヌは期待していた以上のものを得た。彼女は幼年時代から伯領の支配者であったが、善良公が鋳造した硬貨に初めてジャクリーヌの肖像が刻まれたのである。これは、彼女を支持する一部の者が与えた揺るぎない地位であった。しかし、今や彼女の生活は空虚なもので、まれにしか伯領を旅することはなかった。
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