クックとバンクーバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 00:04 UTC 版)
1745年、イギリスは北西航路の発見者に賞金を出す法案を成立させ、1775年の法案延長時には賞金は2万ポンドに上積みされた。1776年、この賞金を得ようとしたイギリスの海軍本部は、ジェームズ・クック(キャプテン・クック)を航海へと派遣した。クックは二度の太平洋航海を行って引退していたため、当初はチャールズ・クラークが航海を指揮しクックは顧問として本国から支援する予定であったが、クックはベーリングの航海結果に探検欲を刺激され、結局経験のあるクックがクラークを従えて航海に出ることになった。この航海に同行した士官にはウィリアム・ブライ、ジョージ・バンクーバー、ジョン・ゴアといった後のイギリス海軍の探検家となる者たちも参加していたが、彼らは北西航路の存在は証明できないと考えていた。 太平洋を航海しヨーロッパ人として初めてハワイに到達し、1777年4月にヌートカ湾(Nootka Sound、バンクーバー島西海岸)を出たクックは北西航路を西から東へ航行するためまず北米西海岸沿いに北へ向かい、ロシア人たちが40年前に通ったアラスカの沿岸の詳細な海図を作成し学術調査を行った。海軍本部の命令は北緯65度に達するまでは途中の川や入り江は無視せよとの内容だった。しかし一行が北緯65度に達する前に海岸線は南西方向へ向きを変え、一行は緯度の低い方へと押しやられていった。ゴアはクックを説得し、航路を見つける望みを託して、北へ切れ込んだクック湾へと入って行ったがその先は行きどまりであった。一行は海岸線に沿ってさらに南西へ進み、ついにアラスカ半島の先端を越えベーリング海へと入ることができた。だが北緯65度を越え、70度に達したところでベーリング海峡の氷山と流氷に行く手を阻まれ、その先に進むことはできなかった。クックらはロシア人たちの発表した「見せかけだけの発見」と、地理学上の幻想にすぎなかった北西航路を呪いながらハワイ諸島に戻った。クックはハワイで戦没し、クラークらは再度ベーリング海峡に挑戦したが失敗し、一行はイギリスへ戻った。 1791年から1795年にかけて、ジョージ・バンクーバーはヌートカ湾やハワイ、サンフランシスコ(当時スペイン領)などを拠点にブリティッシュ・コロンビアを中心とした北米西海岸を探検し海岸線の調査を行い、ベーリング海峡以南には北西航路へ抜ける水路は存在しないことを明らかにした。この結論は、カナダ内陸から北極海までの広い範囲を探検し、1793年に陸路でカナダの太平洋岸へ到達したアレグザンダー・マッケンジーの記録によって裏付けられた。
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