カンバセレスと同性愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 04:27 UTC 版)
「ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス」の記事における「カンバセレスと同性愛」の解説
フランスにおいて同性愛が犯罪ではなくなったのは、カンバセレスの業績であると広く信じられている。彼自身が同性愛者であったことで、この巷間に流布した、しかし完全に誤った認識が信用できそうに見えるのであろう。彼の性的指向はよく知られていたし、彼がそれを隠す努力をしたとは思われない。彼は独身で通し、他の独身男性といつも一緒にいた。ナポレオンがこのことに関する数々の冗談を作り出したことが記録されている。しかし実際は、同性愛に対する法的訴追がなされなくなったこととカンバセレスとは、何の関係もなかった。彼はナポレオン法典を起草する上で中心的役割を果たしたが、この法典は民法典であった。彼は、性犯罪についても規定する1810年の刑法典には、何の関係もなかった。 フランス革命以前には、国王の法律の下で、男色は死刑に当たる罪とされていた。刑罰は火あぶりの刑であった。しかし、男色の罪で実際に訴追され、処刑された者はごくわずかであった(18世紀を通じて5人を超えない)。警察に逮捕された男色者は、警告を受けるか、牢獄に(せいぜい)数週間か数か月入れられた後に釈放されることの方が、むしろ普通であった。憲法制定国民議会は、1791年にフランスの刑法を改正した際、男色を処罰する法律を廃止した。もっとも、公開の場で議論がなされなかったため、その動機は分かっていない(これと似た状況が、ロシア革命の初期にも起こった。)。 1810年の刑法典の起草者には、男性の同性愛を処罰する法律を改めて導入するという選択肢もあった(ソビエト連邦では実際に導入された)のだが、彼らがそれを検討したという証拠さえない。ミシェル・シバリス(Michael Sibalis)の最近の研究が明らかにしたとおり、これは、カンバセレスの影響力とは何の関係もなかった。しかし、ナポレオンの官吏は、「社会的良識に対する罪」のような他の法律を用いて、同性愛について公の場で表現することを抑圧することができ、実際にそうした。シバリスは、警察の監視や嫌がらせがあったとはいえ「革命期及びナポレオン時代は比較的自由な時代であり」、現代のヨーロッパにおいて同性愛に対する法律上の取扱いが寛容なことにつながるものであったと結論づけている。ナポレオンにより征服されたことで、ナポレオンの刑法典の原則が(同性愛を犯罪ではなくしたことも含めて)、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ、ラインラント、イタリア等のヨーロッパの他の多くの部分にも押しつけられることになった。他の国は、自由にフランスの例にならった(例えばバイエルン王国は1813年、スペインは1822年)。
※この「カンバセレスと同性愛」の解説は、「ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス」の解説の一部です。
「カンバセレスと同性愛」を含む「ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス」の記事については、「ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス」の概要を参照ください。
- カンバセレスと同性愛のページへのリンク