カリフォルニア・エンゼルス時代
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「ドン・アース」の記事における「カリフォルニア・エンゼルス時代」の解説
1978年(1年目)は及第点以上の数字を残したアースだったが、シーズン終了後の12月8日に、俊足の二塁手、ジェリー・レミーとのトレードで、カリフォルニア・エンゼルスへと移籍することとなる。エンゼルス移籍後も当初は先発投手としてマウンドに立ち、移籍1年目の1978年には11勝を記録した。翌1979年も主に先発を務めたが、8月半ば以降は、メジャー3年目で初めて、リリーフ投手としても起用されるようになった。リリーフを務めるようになったお陰で、同年のリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦では、先発のフランク・タナナを6回からリリーフし、結果的にエンゼルス史上初のポストシーズンでの勝ち投手となった(しかし、アース登板時点で2対1とリードしていながら、6回と7回に1点ずつを与えてしまうなど、内容は決して誉められたものではなかった。試合は9回裏に1点ビハインドのエンゼルスが2点を奪ってサヨナラ勝ちを決めた)。 1980年7月31日のゲームで一つのアウトも取れずに4失点したのを最後に、アースはリリーフ専門の投手となる(それ以降現役引退まで、再びメジャーの先発マウンドを務めることは1試合もなかった)。この試合はアースの通算100試合目の登板でもあったが、この試合を含めての直近5試合で17.2回を投げて33安打を浴び、26失点(24自責点)、防御率12.23という大荒れの状態であったため、先発ローテーションを外れるという形になった(前年に自身初のリリーフ登板を務めた際も、直前の5試合で防御率6.35と不調に陥っていた)。するとリリーフ転向後は別人のように安定した投球を見せ、19試合に登板し、防御率2.08を記録。先発を務めていた際に投球回数を稼いでいたこともあり、シーズン終了時の4.06という防御率は、チームトップの数字だった。 1981年には救援投手として期待が寄せられ、エンゼルス最初のクローザーを務めることとなった。前年にリリーフとして見せた活躍がまぐれではないことを証明するシーズンとなったが、開幕から15試合の登板で防御率0.66、被打率も.208とほぼ完璧な投球を見せた。その後やや失速したものの(24試合で防御率3.55)、シーズンでの成績は39試合の登板で、アメリカンリーグ6位(チームトップ)の11セーブを記録した。また2.34という防御率は、10イニング以上に登板した投手の中ではチームトップの数字であった。 1982年のシーズンも、開幕からリリーフ投手の一角を担い、一時は防御率0点台を記録していたが、7月17日のゲームが同年最後の登板となった。肘の怪我との戦いの始まりであった。 1983年はメジャー登板0に終わった。 1984年6月18日、約2年振りとなるメジャー登板を果たす。復帰後は4試合連続無失点を記録するなど好調をキープし、シーズンでは23試合に登板して防御率はチームトップ(規定投球回如何にかかわらず)の1.62。見事な復活を果たした。
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