カッペル戦争とカッペル和議
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「カッペル戦争とカッペル和議」の解説
1528年1月、盟約者団中でも有力なカントンであるベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンやコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ。一方、インターラーケン修道院廃止後の修道院の継承者はベルンからの自立を図ろうとしていたが、修道院長が支配権を都市に引き渡して修道院内の財宝・銀器がベルンに持ち去られたことを契機に、憤激した農民がカトリックに再び戻り、それをカトリック諸邦が支援するという事態も生じた。カトリック派のカントンは宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月にカッペルの野で対峙した(第一次カッペル戦争)。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、グラールスの調停もあって「現状維持」を約束して和睦した。この第一次カッペル和議(ドイツ語版)では、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのであった。ここに信仰の「属地主義」、すなわち「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった。上述したアウクスブルク和議より20数年前のことであり、スイスはヨーロッパにおける宗教多元化の最初の例となったのである。 第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた。一方、ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月にはヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立した(聖餐論)。カトリックでは、パンと葡萄酒は聖別されると、実体的にキリストの身体と血に変化するという「化体説」を公認していたが、ルターはキリストの身体と血は聖体拝領のパンと葡萄酒の中に、その下にそれとともに実在するという「両体共存説」をとってカトリック的痕跡をとどめた。それに対し、ツヴィングリは「象徴説」を採用し、パンと葡萄酒にはいかなる意味においてもキリストの身体と血は実在せず、彼の死を象徴する記号であるにすぎないとしており、ただこの1点について折り合いがつかなかったため、物別れに終わったのである。これは、プロテスタント内部の分裂の一因となった。 ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し、経済封鎖が実施されるにとどまった。この経済封鎖によってカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日にカトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第二次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))、これに対してツヴィングリはチューリヒ市民軍を率いて邀撃した。この当時、カトリック側の兵8千に対してチューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦でツヴィングリは戦死した。これは、スイスの傭兵制に対してツヴィングリがかつて厳しい批判をおこなったため、チューリヒが傭兵を充分に用いえなかったことにもよっていた。 しかし、その後はベルンを核とする福音主義派が反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議(ドイツ語版)が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された。ツヴィングリの死により、福音主義運動は後継者ハインリヒ・ブリンガーに受け継がれ、その頃にはツヴィングリの信仰告白を受け入れる都市はスイスにとどまらずドイツ南部にまで広がっていた。これらは、やがてカルヴィニズムのなかに解消されていくこととなった。
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