カイザー=フレーザー・コーポレーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 14:10 UTC 版)
「カイザー=フレーザー」の記事における「カイザー=フレーザー・コーポレーション」の解説
1945年7月25日に設立され、1946年、ニューヨーク市のウォルドルフ アストリア ホテルでカイザー (Kaiser) とフレーザー (Frazer) という創立者の名を冠したプロトタイプ2車を公開した。プロトタイプのカイザーは先進的な前輪駆動(FF)の設計を取り入れたと発表され、一方フレーザーは高級仕様の従来型後輪駆動 (FR) となっていた。スタイリングはハワード・ダーリン (Howard Darrin) による、先進的なフルワイズボディーであった。 しかし、開発期間および製造に要するコストの問題から、前輪駆動方式は生産モデルには採用されなかった。新し物好きのヘンリー・カイザーは別として、フレーザーら多くの人々は、戦前、「コード」の前輪駆動車に駆動系のトラブルが多発していた歴史を知っており、これを支持していなかったこともある。またモノコック構造やトーションバーサスペンションなどを導入した前輪駆動試作車も、操縦が重くシミ―が発生し、コスト高ということで生産断念せざるを得なかった。結局、1947年式として発表されたカイザー車およびフレーザー車は、ボディとエンジンが共通のバッジエンジニアリング車となった。 それでも、前後フェンダーをボンネットおよびトランクと完全に一体化し、車体側面を平滑に連続させた(フラッシュサイド)幅広の新型デザインを持つカイザーとフレーザーが市場に投入された時点で、ビッグスリーはいまだに古い戦前モデルを継続生産しており、2種の兄弟車は市場から注目される存在となった。その工業デザインとしてのアプローチによるスタイリングは、イギリスのシンガーやドイツのボルクヴァルト、米国内の独立系メーカーであるハドソンやナッシュの戦後型モデルにも影響を与えたとされる。1950年までボディとエンジンは共有されつづけ、外装の一部と内装が異なるのみであった。 もっとも、ビッグスリーおよびその他の戦前からの主要メーカーは、戦後型のニューモデルの開発を進めており、1948年から1949年にかけて、カイザーやフレーザーと同様のフルワイズ、フラッシュサイドボディの新型モデルが一気に市場に出回ると、カイザー=フレーザーの優位性は失われた。 もとより、フラッシュサイドボディとしては初期のデザインであるダーリン・デザインのカイザー=フレーザー車は、1946年ならともかく、1950年ともなると競合各社の、より技巧を凝らした後発のデザインに比べ、平板さは否めなくなっていた。しかもエンジンは生産体制の制約から自社製ではなく、エンジンメーカーのコンチネンタル製エンジンを購入して搭載していた。これは1950年代までカイザー=フレーザー系の乗用車全てに共通しており、自社でエンジンを開発できないことは、性能向上の足かせとなり、競争力を削いだ。カイザーの旧式なコンチネンタル製サイドバルブ6気筒3.7Lエンジンでは、競合各社の中級車が搭載するV型8気筒エンジンに太刀打ちできなかったのである。 ジョゼフ・フレイザーは第二次世界大戦前のグラハム=ペイジ・コーポレーションでの経験によって、現実を直視した経営方針を採ろうとしたが、もとが造船業者であって自動車産業への知見の乏しいヘンリー・カイザーは、向こう見ずに困難に立ち向かおうとした。1949年に至ってカイザー=フレーザー製品の販売が落ち込んだにもかかわらず、カイザーはより多くの生産を指示し、その結果、1950年半ばには在庫過剰に陥った。当然の帰結だったが、帳尻合わせのため1949年生産分を1950年製扱いにして在庫処分する羽目になった。
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