オーナー・監督としての経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:29 UTC 版)
「生沢徹」の記事における「オーナー・監督としての経歴」の解説
1979年、F3時代のメカニック伊藤義敦とともに「i&iレーシングディベロップメント」を設立。高原敬武と中嶋悟を擁し、中嶋が富士GCのシリーズチャンピオンを獲得した。 1981年、ホンダのワークスF2エンジンの国内初供給チームとなり、中嶋が全日本F2選手権を連覇。1982年にはヨーロッパF2選手権への長期遠征も試みるが、資金不足に悩まされて途中で断念。中嶋は同年限りで生沢のもとを去った。1983年はジェフ・リースのドライブによりチームとして3連覇を達成した。1984年から1986年まではトムス・トヨタのマシンで全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権に参戦した。 またホンダ系のオートバイショップ「Team Ikuzawa」を開業し、2輪レース活動も行なった。ムーンクラフト、無限と共同でオリジナルバイク「ホワイトブル」を製作し、1984年・1985年に2輪の鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場。1989年にはホンダ系ワークスチーム「BEAMSホンダ・ウィズ・イクザワ」を率いて参戦し、ドミニク・サロン/アレックス・ビエラ組が優勝した。同時期にイギリスの2輪コンストラクターであるハリスと協力し、ホンダエンジンを搭載したオリジナルのIkuzawa・TH-1を製作。公道用として少数販売し、マン島TTレースなどのレースにも出場させた。 1990年には町田收に請われて世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権(WSPC)に参戦するニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)チームの監督を務めた。この時ヨーロッパに広く持つ人脈を活用して、メルセデス・ベンツに在籍していたデビッド・プライスの穏健な引き抜きに成功し、当時無敵だったメルセデス・ベンツのノウハウを得た。またデビッド・プライスは前年ワークス活動を休止したアストンマーティンのスタッフを大量に採用したため「日産は今すぐにでもF1で活動できる」と言われた程の有能な人材を短期間に揃えた。この年のル・マン24時間レースではマーク・ブランデル/ジュリアン・ベイリー/ジャンフランコ・ブランカテリ組がポールポジションを獲得したが、この予選用エンジンVRH35Zの投入を巡って日産陣営の足並みが乱れ、NMEとNPTIのスタッフがピットで暴力沙汰を起こす騒ぎとなった。 1994年には「チーム・イクザワF1」の拠点をイギリスに設け、F1参戦を目指す。マネージャーに元ウィリアムズのピーター・ウィンザー、デザイナーに元フェラーリのエンリケ・スカラブローニという体制で準備を進めたが、1995年の阪神・淡路大震災の影響で資金調達に行き詰まり計画中止となった。 帰国後マウンテンバイク(MTB)に興味を持ち、2002年より曙ブレーキ工業のダウンヒルレースプロジェクトに参加。2004年に「Team Ikuzawa」と改名し、安達靖が加入しオリジナルMTBの開発を行った。また曙ブレーキの企業ロゴのデザインを手がけ、マクラーレンとのサプライヤー契約を仲介している。
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