オハイオ州立大学バックアイズ
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「ポール・ブラウン (アメリカンフットボール)」の記事における「オハイオ州立大学バックアイズ」の解説
オハイオ・ハイスクールフットボールコーチ協会や後にパデュー大学ヘッドコーチになるトレド・ウェイト高校のジャック・モレンコフの熱烈な支持をうけ、ブラウンは1941年1月14日にオハイオ州立大学バックアイズのヘッドコーチに就任した。ブラウンのもと、バックアイズは1941年から1943年にかけて18勝8敗1分の成績を収めた。ブラウンの選手たちは、スピード、インテリジェンス、およびコンタクトの強さで知られるようになった。彼のチームの遂行力とファンダメンタル技術の高さから、彼はオハイオ州で「プレシジョン・ポール」(Precision Paul、精密ポール)と呼ばれた。 彼のオハイオ州立大での最初のシーズンは6勝1敗1分で、ランニングバックオットー・グレアム(後にクリーブランド・ブラウンズのクォーターバックとして10シーズンプレイし、全てのシーズンでチャンピオンシップに出場し、そのうち7回優勝した)を擁するノースウェスタン大学ワイルドキャッツに敗退し、ミシガン大学ウォルバリンズと引き分けた。オハイオ州立大はウェスタンカンファレンスで同率2位になり、APランキング13位でシーズンを終え、ブラウンはナショナル・コーチ・オブ・ザ・イヤーではフランク・リーイ、バーニー・ビーアマンおよびアール・ブライクに次いで4位に選出された。 翌1942年シーズンは18名の優秀な選手が卒業および第二次世界大戦の兵役のため抜けることになったにもかかわらず、ブラウンは3人の4年生、16人の3年生、および24人の2年生で構成されたバックアイズを率いて9勝1敗の成績を収め、初めてNCAAナショナルチャンピオンシップに選出された。選手の中にはレス・ホルヴァースと4人のマシロン卒業生がおり、そのうちの2人リン・ヒューストンとトミー・ジェイムズは後にクリーブランド・ブラウンズでプレイした。唯一の敗戦はロードでのウィスコンシン大学マディソン校バジャーズとの試合で、マディソンへの鉄道移動中に不衛生な水のせいでチームの大部分が赤痢に罹ってしまったことから「バッドウォーター・ゲーム」(Bad-Water Game)と呼ばれるようになった。 ブラウンは1942年にオハイオ史上もっとも素晴らしい1年生チームをリクルートしたと評判になったが、その全員を兵役にとられてしまった。1943年、ミシガンやパデューのような学校がV-12海軍カレッジトレーニングプログラムの一部に組み込まれている間、オハイオ州立大は、陸軍の陸軍特別トレーニングプログラム(ASTP)と提携したためにハンディキャップを負うことになった(訓練生は大学のスポーツに参加することを許されなかった)。ビッグ・テン・カンファレンスは1943年に特別戦時免除を公布し1年生がフットボールをすることを許可したが、オハイオ州立大にとってそれはエルロイ・ハーシュのような選手を起用する、より年長でより大きな(軍およびカレッジ両方の)チームと競い合わなければならないことを意味した。1943年、「ベイビーバックス」は5人の復帰選手とナショナルチャンピオンチームからの1人、1942年入学生が6人、そして33人の17歳の新入生で構成され、3勝6敗だった。 1944年2月、ブラウンは選抜徴兵制度(Selective Service System)においてクラス1-Aに再分類され、1944年4月12日にアメリカ海軍中尉として従軍した。彼はグレートレイクス海軍基地に配属されブルージャケット(海軍兵)・フットボールチームのヘッドコーチになった。他の部局チームやカレッジプログラムチームと戦い、大戦の最後の2年間に15勝5敗2分の成績を収めた。この5敗のうちのひとつは1944年10月9日にオハイオ州立大に敗れたものである。
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