エクアドル東部のインディアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 17:20 UTC 版)
「エクアドル人」の記事における「エクアドル東部のインディアン」の解説
16世紀になって初めてエクアドル東部のインディアンは白人と接する機会が出てきたが、他の先住民と比べるとその機会は少ないものであった。 19世紀までにエクアドル東部へやって来たインディアン以外の民族の多くは貿易業者か宣教師であった。 1950年代初めに政府が道路を作ってSierraの住民にアマゾン川流域へ移動するように勧めました。それによってエクアドル東部のインディアンは他の民族と接するようになり、インディアンと他の地域からやってきた人たちが接することにより、先住民の生活に大きな影響を与えることになる。 1970年代後半には、およそ3万人のQuichua語を話す人たちと1万5千人のJívaros族がエクアドル東部のインディアンたちと生活していた。Quichua語を話す人たち(この人たちはYumbosと呼ばれることもある)はスペインによる侵略の後、自分たちのグループを抜けだした。 Quichua語を話す宣教師や貿易業者の影響を受けて、Yumbosが話す言葉も変わっていき、次第に以前話していたYumbos特有のQuichua語を話さなくなった。Yumbosはエクアドル東部の至る所に散らばり、Shuar族とAchuar族に分かれたJívarosはエクアドル南東部に集中し、ペルー北東部で生活する人もいた。YumbosもJívarosも地域内での争いを回避し、焼畑農業による熱帯雨林の破壊を最小限にするために昔から移住に依存した生活をしている。両者は原始的な手段で農業をして生計を立てており、Maniocという主要作物はたくさんの果物や野菜と共に生産を伸ばしていった。Yumbosの男性は賃金労働者としても働いて生活必需品が必要な時はそこで稼いだお金で購入した。 1970年代中ごろまでに多くのQuichua語を話す人たちがエクアドル東部の町や教会のある場所へ移住してきた。インディアンの人たちはキリスト教徒のインディアンとジャングルに住んでいるインディアンを区別するようになり、キリスト教徒のインディアンは都会の人たちと商取引をする。キリスト教徒でQuichua語を話す人たちとは違い、Jívarosはもっと人里離れた地域に住んでおり、Jívarosは農業だけではなく狩りや家畜でも生計を立てていたが、 彼らの園芸のやり方は、キリスト教徒ではないYumbosのやり方と似ていた。 Shamans(curanderos)族はYumbosやJívarosと重要な社会的関係を築いた。地域で争いが起きた時は先頭に立って解決に努め、1980年代に敵対関係のあるShamans同士の争いが発展して多くの死者がでた。 エクアドル東部に住んでいたインディアンの人口は、外部の人たちと会う機会が多くなったことによって急激に減少し、メスティーソが先住民の土地を横取りしたことによって作物が取れなくなり、先住民が免疫を持っていなかった病気にかかり、また、社会が混乱していたのもあって死亡率が増え、出生率が下がった。 1950年代のShuar族に関する研究では、10代の人口は思っていたよりも少ないことがわかり、この10代の人たちとは外部の人たちと関わることが増えた世代の中では一番若い人たちであり、その約10年後、人口増加率は持ち直してきた。
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