エクアドル戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 06:08 UTC 版)
「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の記事における「エクアドル戦線」の解説
ヌエバグラナダを支配したボリバルは議会にヌエバグラナダとベネズエラを合併した新しい国家の創設を要請した。すぐに現在のベネズエラ・コロンビア・パナマ・エクアドルを合わせた地域がコロンビア共和国(大コロンビア)として宣言されたが、エクアドルは依然としてスペインの支配下にあった。 エクアドルのグアヤキルで蜂起した独立派がコロンビアに援兵を求めたとき、ボリバルはベネズエラのカラカス方面への攻勢を計画していた。ボリバルはスクレに小兵力を与えて救援させ、自らは主力をもってカラカスに向けて出発した。コロンビア増援軍司令官の肩書きをもって1821年4月に出発したスクレは、650の兵とともに5月にグアヤキルに到着した。現地の兵力を合わせ、キトに拠点をおくスペイン軍に対抗し、8月19日、二手に分かれて進攻するスペイン軍をヤグアチの戦いで各個撃破した。追撃に転じたが、これは9月12日のアンバトの戦いで頓挫した。もともと数的に劣勢であったスクレは、11月にスペイン軍と休戦して戦線を落ち着かせた。 同年6月にカラボボの戦い(英語版)でベネズエラの独立を決したボリバルは、1822年にエクアドルへの本格進攻にとりかかった。スクレは南下するボリバル軍に呼応して攻勢に出た。ホセ・デ・サン・マルティンが派遣したアンドレス・サンタクルス揮下の兵力を合わせ、5月にボリバルより一足先にキトの郊外に到着した。スクレは深夜にキトの前面を横切ってピチンチャ火山に陣取り、スペイン軍が期待した援軍の道を遮断した。スペイン軍はやむなく山に向けて攻撃を行い、惨敗した。このピチンチャの戦い(英語版)の翌日、スクレはアイメリチ総督の降伏を受け入れた。ボリバルはキトに到着すると、6月18日にスクレを少将に昇進させた。スクレは秋から冬にかけて山地に残るスペイン軍を掃討した。
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