エクアドルとの戦争と平和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:24 UTC 版)
「アルベルト・フジモリ」の記事における「エクアドルとの戦争と平和」の解説
19世紀初頭に独立した共和国として誕生して以来、1998年に至るまでペルー、エクアドル両国はアマゾン川流域とアンデス山脈の国境線に領土問題を抱えていた。この問題は大コロンビア時代から継承され、3度(1941年、1981年と1995年)深刻な状態に達し、短い戦争を起こした。国境紛争は一世紀半の長きに渡り、ペルー・エクアドルの貿易関係強化を妨げる主要な要因でもあった。 1995年、北東の国境地帯、コルディジェラ・デル・コンドル山脈でエクアドルとの武力衝突があった。その年の3月に、ブラジリアのイタマラチ大統領宮殿で休戦が調印されたものの、その後数年間ペルーとエクアドル関係は緊迫した状況が続き、その最中にはペルー軍兵士に日本人が殺されるペルー早稲田大学探検部員殺害事件も起きた。1998年8月ハミル・マワ大統領がペルーを訪れ、最終的な和解のための交渉が開始された。 1998年10月、エクアドルとペルーはリオデジャネイロ議定書の保証人の意見に基づき、フジモリ大統領は国境の定まっていない78キロメートルを画定するEl acto Brasilaに署名した。
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