イングランドとの協力体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/29 13:42 UTC 版)
「ブルゴーニュ派」の記事における「イングランドとの協力体制」の解説
1411年7月に始まった内戦は、初めイングランドの支援を受けた無怖公が優勢で、10月にパリを奪いシャルル6世と王妃イザボー、ルイ王太子を手中に収め宮廷を確保した。ところが、1413年4月にカボシュやパリ大学のピエール・コーションがパリ市民を扇動して暴動を起こし、国王側近が多数処刑されると(カボシュの反乱(フランス語版))、国王・王太子の救援に応じてアルマニャック派がパリを制圧しカボシュ・コーションらは追放、市民の統制に失敗した無怖公も8月に領地のフランドルへ退去した。アルマニャック派は反撃に出てブルゴーニュ派の都市を落としていったが、イングランドの脅威が迫っていたため翌1414年9月にブルゴーニュ派と和睦した。この間、何度か両派は和睦と再戦を繰り返し、アルマニャック派が結び直したイングランドの同盟もいつのまにか破られていた。 1415年、イングランド王ヘンリー5世がフランス遠征を開始、迎え撃ったアルマニャック派は10月のアジャンクールの戦いで大敗、オルレアン公を含む多くの幹部が戦死か捕虜となる大打撃を受けた。無怖公は戦闘前に対イングランドへ向け援軍を出そうとしたが、アルマニャック派に拒否されたため中止、1416年にイングランドと休戦協定を結び、翌1417年にノルマンディーをイングランド軍が征服していくのを尻目に、アルマニャック派と対立してパリを出たイザボーを保護してパリ奪回を窺った。1418年5月にパリ市民がまたもや暴動を起こしアルマニャック伯を始めとする者達を1000人以上虐殺、無怖公は混乱に乗じて7月にパリ奪回を果たし、シャルル王太子(ルイ王太子の弟、後のシャルル7世)を取り逃がしたがフランス東部を制圧した。 しかし、イングランドがフランス征服を進めていくにつれ、無怖公は自領もイングランドに侵食されつつある状況に不安になり、王太子らアルマニャック派と和睦しようとした。だが、1419年に無怖公はアルマニャック派に暗殺され、後を継いだ息子のフィリップ3世(善良公)はイングランドと同盟を結び、1420年のトロワ条約締結に繋がった。1422年にヘンリー5世とシャルル6世が亡くなり、幼いヘンリー6世を君主とするイングランド・フランス二重王国が誕生するとブルゴーニュはイングランドの重要な同盟相手として扱われていたが、善良公本人はフランスとの戦争に消極的で、1424年からシャルル7世の姑ヨランド・ダラゴンと交渉してアルマニャック派と休戦、ヨランドが登用したアルテュール・ド・リッシュモン(姉マルグリットの夫)を通してアルマニャック派の強硬派を退け、フランスに歩み寄っていた。一方、イングランドとは北のネーデルラントを巡り不仲となり、ヘンリー6世の叔父のグロスター公ハンフリーがネーデルラントへ出兵したため迎撃、グロスター公の兄ベッドフォード公ジョン(妹アンヌの夫)の仲介で友好は保たれたが、善良公はイングランドへの不信を抱き続けた。
※この「イングランドとの協力体制」の解説は、「ブルゴーニュ派」の解説の一部です。
「イングランドとの協力体制」を含む「ブルゴーニュ派」の記事については、「ブルゴーニュ派」の概要を参照ください。
- イングランドとの協力体制のページへのリンク