イングランドとの同君連合から合同まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:23 UTC 版)
「スコットランド王国」の記事における「イングランドとの同君連合から合同まで」の解説
1603年、イングランド女王エリザベス1世が死去すると、後継者として指名されたジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位することになり、アイルランド王も兼ねることになった。以後イングランドとスコットランドは、1707年に合邦してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。なお、イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた。一方でジェームズ1世は統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランド両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを1606年に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。 エディンバラからウェストミンスターに移ったジェームズ1世以降のステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻ろうとしなかった。スコットランドには担当国務大臣をおき、それが摂政となって行政にあたることとなった。この転機は、三王国戦争(いわゆる清教徒革命)によってもたらされた。監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、主教戦争からスコットランド内戦、そしてクロムウェルによるスコットランド征服という事態を招いた。このときコモンウェルスのイングランドが施行した航海条例がスコットランド経済に打撃を与えた。この条例によって、スコットランドも外国とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されたのである。スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになった。スコットランド議会は安全保障法(1704年)によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発した。これに対してイングランドは外国人法(1705年)で応酬した。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。人口で5倍、経済力で38倍の相手に対抗できたのはここまでであった。スコットランドはイングランドの軍門に降った。そして、航海条例で締め出されたスコットランド経済は停滞し、さらに飢饉が追い討ちをかけた。起死回生を図ったダリエン計画はイングランドの妨害に遭い破綻し、自力の経済再建は不可能になった。アン女王のとき、スコットランド議会は1707年、自らの解散を決議し合同法により独立を放棄したことでジェームズ1世以来100年余りにわたって同君連合を結んできたイングランド、スコットランドの両国は、正式に統合されてグレートブリテン王国になった。
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