アラモの守備隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:23 UTC 版)
当時、アラモを守備することになっていたのはジェームズ・ボウイ大佐である。また、騎兵隊中佐に就任したばかりの若きウィリアム・トラヴィスも1836年1月に州政府から30人の志願兵と共に派遣され、2月3日にサン・アントニオに到着した。トラヴィスは家族の病気のために離れていて12日後に戻る約束をしていたジェームズ・C・ネイル大佐を飛び越えて正式な指揮官に任じられ、テクシャン軍を指揮した。 ボウイナイフで知られるジェームズ・ボウイの名声などにより、正規の軍人でない志願兵も砦を守るために集まった。ボウイとトラヴィスは作戦と指揮を巡って度々口論したが、ボウイが2月27日結核のため病床につくと、指揮権をトラヴィスに全権委任した。アラモには約200名程度の軍勢しかいなかったため、トラヴィスは成立したてのテキサス暫定政府に再三援軍を求めたが、テキサス軍将軍サミュエル・ヒューストンは兵の召集を待っていたために援軍の派遣は志願して行った30名程度だけだった。 米国は当時アラモ砦の戦いをアメリカ移民のメキシコへの反抗とみていたが、実際には多くのメキシコ系テキサス人(テハノ)も反乱側を支持していた。この闘争を1776年のアメリカ独立戦争と同じ概念で見るものも多かった。テハノはメキシコに1824年のメキシコ憲法で表現された州権を支持する緩やかな中央政府を望んでいた。最後の突撃の前に伝令として送り出されたフアン・ネポムセノ・セギン大尉(後に大佐)もテハノの1人だった。 テキサス遠方の各地からも多くの守備兵が集まった。28の国と州から男たちが集まり、最も若いものは16歳のガルバ・フィキュアで、最も老いたものは57歳のゴードン・C・ジェニングスだった。民衆の間で絶大な人気を誇っていたテネシー州出身の元下院議員デイヴィッド・クロケットも防衛に参加した。12人の「テネシーの志願兵」は2月8日にアラモに到着した。 ニューオリンズからは「ニューオリンズ・グレイズ」という集団が歩兵として戦うためにやって来た。グレイズを含む2つの中隊が12月にベハルの籠城戦に参加した。メキシコと戦う約束を残し、グレイズの大部分はマタモロスへ都市を略奪する遠征のためにサン・アントニオ・デ・ベハルを去った。しかし約24人はアラモに残った。 トラヴィス中佐は戦いの前に伝令を急派したように3月3日にも戦況をテキサス暫定政府に報告し、援助を要請することができた。しかし、サム・ヒューストンのテキサス陸軍はメキシコの陸軍と戦いながら持ち場を離れられる程の戦力も持ち合わせていなかった。またテキサス暫定政府はメンバー内の争いにより混乱していた。トラヴィスは助けを求めてジェームス・ボーナムを含む数人の伝令をジェームス・ファニン大佐にも送った。アラモから南東に100マイル (160 km)離れたゴリアドで450人以上のテキサス軍を指揮していたファニンは、2月28日に320人の兵と大砲をアラモに送る行軍を組織的とは言えないやり方で試みたが、不十分な輸送方法により救援を中止した。ファニンと配下の大部分は降伏後にメキシコ軍によって虐殺された。 3月1日の午前1時頃に32人のテクシャンがゴンザレスの町からジョージ・キンベル大尉とジョン・W・スミスと共に到着し、メキシコ人の戦線をかいくぐってアラモの守備隊に合流した。彼らはトラヴィスの援軍要請に対する唯一の反応だった。32人の1人アイザック・ミルサプスによって書かれたとされる手紙が、アラモの籠城戦の前夜の様子を克明に記している。この手紙については、ほぼ偽物に違いないとする議論が歴史家の間に存在する。
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