アテレコ(声優業)の本格開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:35 UTC 版)
「野沢那智」の記事における「アテレコ(声優業)の本格開始」の解説
借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、野沢が銀座の街を歩いていると、劇団七曜会にいた頃の先輩である八奈見乗児と道端で偶然出くわした。そこで野沢は「何か仕事が無いですか?」と聞いたら、「お前、アテレコやれ。事務所は紹介するから」と八奈見に言われるが、野沢は最初、冗談だと思ってまともに取り合わなかった。しかし一週間後また偶然八奈見と出くわすと「もう事務所に連絡入れたぞ」と言われ、四谷にあるプロダクションに連れていかれるが、そこは裏通りにある魚屋の2階で、階段も狭く「俳優の事務所っつったって汚ねぇんだな。何ていうプロダクションなんだろう」とよく見てみると「東京俳優生活協同組合」だったという。このような経緯から事務所の熱心な売り込みもあって、野沢は本格的に声の仕事を始めた。 テレビ普及が本格化した高度経済成長時代のテレビドラマ黎明期に、人手不足からテレビの仕事に手伝いで呼ばれ参加したところ、その仕事は演出などのスタッフではなく演じる方=俳優の端役(性犯罪者役)であった。「こんなの親に見せられない」と困惑した野沢が、「人目に触れず出来る仕事はないか」と職を探しながらも「そんなコソドロみたいな仕事はない」と返され、渋々いくつかの映像出演や舞台出演を重ねた後、次に引き込まれていったもう1つの人手不足の現場がアフレコの世界であった。野沢によれば「アテレコで若い男の役といえば野沢那智」という感じで、次々と仕事が回ってきて、1日3本こなしたこともあったと言う。 1年半アフレコの仕事をこなし、借金が半分になったため、そろそろ役者を辞めようと思い始めた。その時、「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているので、落ちるから大丈夫」と言われて紹介されたのが『0011ナポレオン・ソロ』であった。気楽にオーディションを受けたが、既にイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役は愛川欽也に決まっていたのが、何故か配役が野沢に変更された。野沢が知人から聞いたところによれば、ディレクターが野沢の出演している番組を偶然見て「誰だ?この女みたいな芝居する奴は」と注目し、配役を決定したという。そして『0011ナポレオン・ソロ』が視聴率40%くらいを取る大当たりになったため、役者をやめるわけにはいかなくなったとのこと。 このような経緯で劇団の借金を返済するため声優業を開始して、次第に人気を獲得していった野沢だが、最終的には自分の劇団を復活させ演出家としても活動する。また数多くの吹き替えやアニメに多く出演したり、バラエティ番組などでナレーションを担当した。 TBSラジオの深夜ラジオ番組『パックインミュージック』でパーソナリティとして白石冬美とコンビを組み、文化放送など局を移しても2人で「那智チャコ」の愛称でラジオ番組のパーソナリティ・コンビを務めた。 1963年に、劇団薔薇座を設立し、プロデュースと演出を担当。ストレートプレイ、ミュージカルの上演に力を注いだ。1988年、劇団薔薇座の第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞している。
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