その他仏教宗派の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/26 08:58 UTC 版)
世間、実社会においては、“仏罰”は「仏より加えられる罰のこと」と一般的に思われている。しかし上述したように、仏罰とは仏の悟った真理に背いたために自然に蒙る罰のことであり、仏や第三者が与えるものではない。 仏教宗派における罰の概念は様々であるため、そのすべてを網羅して説明するのは難しいが、あえてその理由を挙げると、釈迦仏をはじめとする仏如来は「一切衆生は皆我が子なり」と言われるように、そのような大いなる慈悲心を持つ仏が罰を与えることはない、というのが一般的な解釈である。したがって仏罰という概念自体が存在しない宗派も多い。(ただし上述したように、仏罰を説く宗派・団体においても、仏罰とは仏の悟った真理に背いたために自然に蒙る罰のことであり、仏や第三者が与えるものではない) たとえば曹洞宗の僧で、童話でも有名な良寛は「病む時は病むがよく御座候、死ぬ時は死ぬがよく御座候、これ病死よりすくわる妙薬にて御座候」と述べている。浄土教では、人を殺めた者も念仏を唱えて信仰すれば極楽浄土へ転生できるとまで説いている。したがって、どちらもそこに罰の概念は存在していない。もっとも『仏説無量寿経』では五逆(父か母か僧の殺害、仏の身体への傷害、教団内の対立惹起、のいずれか)の罪を犯した者と正法を謗る者は弥陀の誓願による救済の対象から除かれることが明記されている。 ただし、多くの宗派では、信仰における生活上で、もし悪い事象が起こるならば、それは自らの“業”や“因果応報”によるものであり、先の『法華経』の経文も誹謗してはならないという誡めであると解釈される。浄土教ではそのような悪い事象も良い事象もすべてみ仏にお任せして、自らはしっかりと信心をするという本来の意味での他力本願にすがるしかない、とする。 また、悪行から来る因果応報によって仏罰を受けるという考え方は日本では古くからあり、『日本霊異記』では仏教の教えに背く行為をした者が報いを受けたという話がいくつか採録され、『平家物語』にも昔関白藤原師通が延暦寺の大衆を攻撃したために日吉大社の神罰を受けて死亡したという説話を載せている(神仏習合が定着しつつあった当時は、延暦寺と麓の日吉大社は一体のものとしてとらえられ、僧侶を攻撃した仏罰が日吉大社の神罰の形式で下されたと解された)。 これは『涅槃経』「四諦品」にも、「正法たる真智を断滅して、益々悪道に陥り、生死に輪廻しては多くの苦悩を招く」、あるいは「悪彰(あくしょう)の示現は衆生を救わんがための故なり」など説かれているように、あくまでも衆生自らが犯した業による報いであり、自らがそれによって気付くもので、仏がその教えに従わない者に罰を与えるという類のものではない、とするのが一般的である。 これらのことから、この教えでしか救われず、他の教えによれば罰あるいは仏罰が出る、などと煽り、自我功利的な教えを宣揚するのは、カルト集団における観念的脅迫でしかない、という反対論や批判もある。
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