木村信卿(きむらのぶあき 1840-1887)
木村信卿は、天保11年(1840)現在の仙台市青葉区柳町通で武士の子として生まれ、幼名を長信といった。8 歳で藩校養賢堂に学び、10歳のときには経書の代講をするほど秀でていたといわれる。その後、仙台藩に出仕し洋兵学などを学び、安政 4年(1857)に江戸へ出て洋兵学、蘭学、仏学などを学び、慶応 2年(1866)には横浜でフランス公使館書記官に会話・翻訳を学び翌慶応 3年に仙台へ帰った。
明治維新後は、新政府の命を受けて大学南校の得業生となり、その後大学少助教となっていたが、当時フランス式の兵制を採用していた陸軍に、仏語精通の腕を買われ招かれた。
その後、築造書の翻訳、兵営建築などに従事していたが、明治 5年以降は兵要地誌の作成、兵語辞書編纂などを命じられ、陸軍少佐となった同 6年には、参謀局から改変された第六局の編纂課長兼地図課長となり、(内容は不明ながら)日本で最初の陸軍図式「路上図式」を作成した。明治10年渋江信夫とともに116万分の1「大日本全図」を完成させた。このように木村信卿は、創生期の参謀局にあって、フランス語の知識を生かし、兵学に地図作成に功績を残し、地位を築いた。
ところが明治11(1878)年、軍政の調査・研究にあった桂太郎が二度目のドイツ滞在より帰国すると相前後して、一連の「地図密売事件」疑惑が起こる。明治11年木村は、これまでの功績にも関わらず、参謀局から改組された参謀本部での職を解かれ、同時に陸軍の兵制は、フランス式からドイツ式へと改革されていく。
明治14(1881)年 1月29日、非職であった木村信卿と地図課の部下であった渋江信夫、木下孟寛、若林平三郎、小林安信は、日本全図を清国公使館に密売した容疑で拘引される。木村は、かねてより清国語のことで付き合いのあった公使館職員からの仲介で、清国公使何如璋(1838-1891)および黄遵憲(1848-1905)から日本地図の作製を依頼された。
黄遵憲から依頼されたのは、単に黄の自著「日本国志」に挿入するための日本全図であったともいわれる。
木村は、これを一旦は断ったのだが、断りきれず地図作製を部下の渋江信夫に依頼した。そして、その他の職員が地図作製に当ったというもの。事件は地図完成以前に発覚し未遂に終わったのだが。不思議なことに、事件の前に参謀局職員大島宗美と服部道門の二人が謎の死を遂げる。そして、同年5月3日参謀局で西画の指導をしていた川上冬涯が自殺? 更に拘留中の渋江も自殺する。
フランス派とドイツ派の対立が「地図密売事件」の裏にあったのだろう。じっさい参謀局からフランス派は一掃され、作成される地図からもフランス流の彩色は消えていく。
木村信卿は、事件後閉門停官し、晩年を石巻市で過ごした。

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