観世音寺境内および子院跡とは? わかりやすく解説

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観世音寺境内および子院跡

名称: 観世音寺境内および子院跡
ふりがな かんぜおんじけいだいおよびしいんあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 福岡県
市区町村 太宰府市
管理団体
指定年月日 1970.09.21(昭和45.09.21)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S42-1-014[[観世音寺]かんぜおんじ]境内および[[子院]しいん]跡(福岡県筑紫郡太宰府町.txt: 筑紫観世音寺は、天智天皇斉明天皇のために誓願しつくられた寺である。草創年時不明であるが、7世紀後半着工されたものと考えられる。しかし、伽藍完成は容易でなく、養老7年723)には僧[[満誓]まんせい]が造筑紫観世音寺別当となり、[[天平]てんぴょう]17年(745)には僧[[玄〓(*1)]げんぼう]が造営のため西下している。
 観世音寺完成したのは、天平17、18年(745、6)ころと思われるので、その完成までには、天智天皇以来実に80余年を費したことになる。天平宝字5年(761)には[[戒壇院]かいだんいん]がつくられ東大寺・[[下野薬師寺]しもつけやくしじ]のそれとともに日本三戒壇一つ数えられている。[[延喜]えんぎ]5年(905)の「観世音寺資財帳によれば観世音寺には[[金堂]こんどう]・講堂五重塔婆・中門鐘樓経蔵燈樓廻廊南大門築垣戒壇院菩薩院・僧房客僧房のほか、多く大衆院があり、九州随一大寺であった偉観の様がしのばれる平安中期から後期にかけて数回わたって被災し、旧堂塔ことごとく失なわれ、11世紀後半から12世紀前半にかけて、この寺は東大寺末寺となった
 現在の観世音寺にある建物はいずれ江戸時代のものであるが、金堂跡・講堂跡には礎石残り、塔心礎遺存している。礎石状況より判断し観世音寺中門をはいると塔と金堂が東西向かい合い南北中軸線上講堂がある伽藍配置であった推定される史跡指定当たっては、治安元年(1021)の古文書にある寺領と、後世子院四十九院史料見えることを勘案し、現観世音寺中心とする平地北方山林等を指定範囲とした。
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