『奥州後三年記』の残虐性
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「奥州後三年記」の記事における「『奥州後三年記』の残虐性」の解説
城中の美女ども、つはものあらそひ取て陣のうちへゐて来る。おとこの首は鉾にさゝれて先にゆく。此は妻はなみだをながしてしりに行。 これを、「夫の首を妻が泣きながら追いかけた」と説明する学者も居るが、「男は殺され、その妻は連行されて慰みものにされた」と読むのが正しい。 この話が、乱の直後から伝えられたものとの想定すれば、さして年代は違わないはずの『今昔物語集』の何処を見ても、例えば「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」の話などと比べても、このような凄惨さは類を見ない。尚、『今昔物語集』にも、巻25の14話に「源義家朝臣、罰清原武衡等話」があったらしいが、タイトルが残るだけで本文は伝えられていない。 『奥州後三年記』も、貞和版『後三年合戦絵詞』も、その特徴のひとつは残虐性である。確かに『陸奥話記』にも、藤原経清の首を鈍刀をもって、何度も打ち据えるように斬り殺した、というような話はあるが、レベルが違いすぎる。また、『陸奥話記』には、源頼義を賛美しながら一方で、安倍氏に対する同情ともとれる、人間味あふれる記述の方が勝っている。『奥州後三年記』にはそのような人の心のあたたかさは感じられない。 千任が舌をきりをはりて、しばりかゞめて木の枝につりかけて、足を地につけずして、足の下に武衡がくびををけり。千任なくなくあしをかゞめて是をふまず。しばらくありて、ちから盡て足をさげてつゐに主の首をふみつ。将軍これをみてらうどうどもにいふやう。二年の愁眉けふすでにひらけぬ。 この話を詳細に書き記し、舌を引き抜く処、その後千任が木に吊され、力尽きて主人清原武衡の生首を踏んでしまうところを絵に描いた嗜虐性を、後白河法皇の嗜虐性と見る見方もある。 しかしながら、京に伝えられた義家の無間地獄の伝承や、義家の同時代人藤原宗忠が、その日記『中右記』に、「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記したことも合わせ考えると、義家に従って参戦した京武者から伝え聞いた義家のひとつの側面であり実話と見なしうる。 貞和版『後三年合戦絵詞』詞書は、玄慧法印が草したとあるので、表現自体は玄慧のもの、絵自体は飛騨守惟久の筆だが、同じ話は後白河法皇の承安版『後三年絵』にも載っていたはずである。後白河法皇の嗜虐性があったとすれば、承安版の編集に当たって、それを強調したことだろう。後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にある「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」は、そのような言い伝えを反映しているものと思われる。 また、義家の同時代人、藤原宗忠が「多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り」というのは、以下に引用する部分に符合する。このような部分を義家賛美の為に鎌倉時代以降に付け加えた、と思う人は居ない。 此くだる所の稚女童部は、城中のつはもの共の愛妻子どもなり。城中におらば夫ひとりくひて、妻子に物くはせぬ事あるまじ。おなじく一所にこそ餓死なんずれ。しからば城中の粮今すこしとく盡べきなりといふ。将軍是を聞て尤しかるべしといひて、降る所のやつどもみな目の前にころす。これをみて永く城戸をとぢてかさねてくだる者なし。 このような戦法は、異民族間の戦争においては現代でも見られることであるが、騎馬武者の個人戦をベースとした京武者の感覚には無い。出羽国の吉彦秀武から出された作戦であることには真実みがある。
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