「U 154」艦長としての初めての哨戒
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「オスカー・クッシュ」の記事における「「U 154」艦長としての初めての哨戒」の解説
1943年3月20日、「U 154」は新たな艦長、クッシュとともに全体として5回目の哨戒に出るべく、ロリアンを後にした。出発の少し前、クッシュは機関員に 「そこの写真をどけろ。ここでは盲目的な崇拝などしてはならん。」 と言葉をかけ、士官室に飾ってあった総統の写真を片づけるよう命じた。クッシュと部下の士官の間には政治的な対立があることが、早期に明らかになる。なぜならナチス政権に反対するクッシュと、ナチズムの確信的な信奉者であったアーベルおよびドゥルッシェルは、しばしば兵の面前で討論に及んでいたからである。クッシュの2回目の哨戒で船医として乗務したノートドゥルフト(Nothdurft)は後に、アーベルとドゥルッシェルを「勝利を信じ、常に総統の従者であることを誇りにしていた典型的な士官」であったと回想している。証言によれば、このような会話は克服しがたいイデオロギー的な対立があったにも関わらず、常に戦友としての絆を感じさせる調子で交わされていたという。 クッシュは反ナチス的な考え方を隠そうとしなかった。それどころか、その姿勢は乗組員すべてが知っていたのである。Uボートの艦内は狭く、クッシュの考え方はすぐに知れ渡った。士官候補生のキルヒアマー(Kirchammer)は、後に軍法会議で 「被告は我ら士官候補生に、独自の意見を育んでプロパガンダの影響を受けないように、と話したことがある。」 と証言した。また、クッシュは乗組員の間に次のような冗談を広めている。 「ドイツ国民とサナダムシに共通することは何だ?どちらも茶色の塊に囲まれ、常に捕まる危険に脅かされているのさ。」 士官たちの関係が決裂したのは1943年7月3日、「U 126 (U 126) 」が航空機の攻撃により、「U 154」のすぐ近くで撃沈された時であった。午前2時44分、敵機が飛来して爆雷を投下した時は、どちらの艦もロリアンへの帰途にあった。「U 126」と「U 154」は攻撃を回避するため、すぐ潜航する。潜航後は「U 126」と通信することが不可能だったので、クッシュは「U 126」が事前の取り決め通り、潜水したまま航行を続けて射程外に出たものと推測した。しかし少し後、「U 154」の発令所は水圧による「U 126」の爆縮と思われる破断音を確認した。クッシュは潜航の継続を決意し、午前7時7分に攻撃地点から4海里の場所に浮上して生存者を捜索する。しかし午前8時33分、再び攻撃を受けかねないことから捜索を打ち切った。 後に攻撃を受けている時と、それに続く行動はUボート艦隊司令官 (de:Befehlshaber der Unterseeboote) によって正当と評価されたものの、キルヒアマーの証言に拠ればアーベルは潜航の少し後、艦長が積極的な救難活動を行わなかったことを強く非難した。なぜなら、「U 126」にはアーベルの親しい友人が勤務していたからである。しかしクッシュは、自艦を危険に晒さないため浮上を却下した。 「この瞬間からアーベルは正に憎しみに燃え、これまで政治的な意見が真っ向から対立していても公私にわたって見ることのできた、士官の協調関係は完全に破壊されたのである。」 加えてアーベルは哨戒後、クッシュから艦長職には不向きであると評価された。この点を通信下士官のヤンカー(Janker)は「アーベルが復讐や報復を願うようになった、そもそもの理由」と受け止めている。
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