「潜入捜査」の発覚
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弁護団の調べによると、「市木春秋」は事件直前の1952年春に村に移り、地区の製材所で会計係として働いていた。共産党への協力や入党を申し入れるなどし、被告人らに接近を図っていたという。 「市木」は5月1日に「革命は近いぞ。覚悟はよいか」と書いた脅迫状を駐在所に投げ込んだことも判明した。 被告側は控訴審中に調査を続けた結果、「市木春秋」を名乗る男が国家地方警察大分県本部(現・大分県警察本部)警備課の巡査部長Aである疑いが強まる。Aは1952年ごろ、ちょうど「市木」が菅生村に姿を現す少し前から行方不明になっていた。弁護団はAの写真を「市木」を知る村民に見せて回り、その多くから同一人物であるという証言を得たのである。 大分新聞と大分合同新聞が取材を進め、「市木」の正体がAであることを実名付きで報じたが、警察側は巡査部長は事件とは無関係であることを主張し、また彼は退職して行方不明であると説明した。 各報道機関は次々に調査を行い、新聞各紙の特ダネ合戦が開始された。その結果、「市木」は偽名で本名はAであること、Aが現在は国家地方警察本部(現・警察庁)の警備課に採用されていること、などが明らかになる。 1957年3月には共同通信社会部記者の斎藤茂男らがAが東京都新宿区番衆町(現在の新宿五丁目)のアパートに潜伏していることを突き止め、取材を敢行。ここでは「東大文学部研究生・佐々淳一」と名乗っていた。また、事件後Aは警察の庇護を受ける形で福生市や警察大学校にも潜伏していたことも露見した。 この結果、法務大臣や国家公安委員会委員長は事件に際してAを「潜入捜査」に使ったと認めるに至った。石井榮三警察庁長官も国会で追及を受け、Aは国警大分県本部警備部長の命令で、「警察官という身分を秘匿し、製材所の主人にお願いして働きつつ、党の関係の方々とも接触することによって情報を収集するという任務を果たすこととなった」と答弁している。 さらにA自身も検察・弁護両側の証人申請を受けて4月、法廷に立つ。爆破の実行については否定したものの、「潜入捜査」のほか、日本共産党関係者間にダイナマイトを運搬したことを認めた。
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