「漢学所」への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:52 UTC 版)
「学習院 (幕末維新期)」の記事における「「漢学所」への移行」の解説
その後、京都における政治的混乱の影響で学習院は一時閉鎖をよぎなくされていたが、慶応4年3月12日(1868年4月4日)、新政府によって復興され、同年3月19日の開講が決まり4月15日(新暦5月7日)には「大学寮代」と改称された。一方この頃には新政府より新しい学校制度の調査を命じられていた矢野玄道ら平田派の国学者が国粋的な「学舎制」を答申していたため学習院の漢学者たちはこれに抵抗し、結果として新政府は明治1年9月16日(1868年10月31日)国学・神道を講じる皇学所と漢学・儒学を講じる漢学所の並立を決定し、同時に学習院(大学寮代)は新設の漢学所に解消される形で廃止された。
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