「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革とは? わかりやすく解説

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「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 16:14 UTC 版)

イタリア統一運動」の記事における「「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革」の解説

1848年から1849年革命挫折した後の10年の期間は「準備十年間」(decennio di preparazione) と呼ばれる民主派の間では、あくまで武装蜂起による統一達成主張するマッツィーニと、連邦制による統一主張するグループとで論争起こった武力闘争方針堅持するマッツィーニ1853年ミラノ蜂起計画する失敗した。この失敗により、マッツィーニ派は融合派(Fusi)と純粋派(Puri)に分裂したマッツィーニは純粋派に与し行動党英語版)(Partito d'azione) を結成する1857年にはカルロ・ピカーサ(英語版)と両シチリア王国イタリア本土との同時蜂起計画するが、両シチリア遠征向かったピカーサのグループには期待した農民呼応はなく惨敗終わりジェノヴァリヴォルノでの蜂起計画頓挫する。無謀な蜂起繰り返すマッツィーニには批判強まり袂を分かつ人々現れるようになった両シチリア王国トスカーナ大公国そして教皇国家など革命の際に憲法制定したイタリア諸国はいずれもこれを破棄したが、サルデーニャ王国だけは憲法維持した1852年にコンヌーピォ(結婚:connubio)と呼ばれる中道右派中道左派との連合により首相に就任したカミッロ・カヴール優れた議会操縦術で政治基盤盤石なものとし、サルデーニャ王国改革進めることになる。 1854年カヴール修道院廃止する法案国王保守派教会抵抗を受けながらも通過させて教会影響力著しく弱体化させ、かつ国王対す議会優位確立したカヴール通商協定イギリスフランスドイツ関税同盟そしてオーストリアと結び、さらに産業育成銀行業務拡大鉄道海運など社会基盤整備振興させ、彼の時代サルデーニャ経済大い発展している。また思想的隔たりのある民主派との協力関係構築しマッツィーニから離れたダニエーレ・マニンらが1857年結成したイタリア国協会イタリア語版)」(Società nazionale) を支援した第一次イタリア独立戦争サルデーニャ王国オーストリアイタリアから駆逐する賭けに完全に失敗したが、サルデーニャ王国ロンバルディア獲得する望みをなお捨てていなかった。カヴールもまた拡張主義野望持っていた。カヴール独力でロンバルディア獲得することはできない考えオーストリア対抗するためイギリスフランスからの援助期待した英仏援助を得るためにクリミア戦争1854年-1856年)に参戦したが、これは失敗終わりパリ講和会議英語版)ではイタリア問題無視されてしまった。しかしながら、この戦争によって有用な目的達成された。すなわち、戦争中英仏ロシアの両陣営を秤にかけたオーストリア危険なほどに孤立したからである。

※この「「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革」の解説は、「イタリア統一運動」の解説の一部です。
「「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革」を含む「イタリア統一運動」の記事については、「イタリア統一運動」の概要を参照ください。

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