「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革
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「イタリア統一運動」の記事における「「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革」の解説
1848年から1849年の革命に挫折した後の10年の期間は「準備の十年間」(decennio di preparazione) と呼ばれる。 民主派の間では、あくまで武装蜂起による統一の達成を主張するマッツィーニと、連邦制による統一を主張するグループとで論争が起こった。武力闘争方針を堅持するマッツィーニは1853年にミラノで蜂起を計画するが失敗した。この失敗により、マッツィーニ派は融合派(Fusi)と純粋派(Puri)に分裂した。マッツィーニは純粋派に与し、行動党(英語版)(Partito d'azione) を結成する。 1857年にはカルロ・ピカーサ(英語版)と両シチリア王国とイタリア本土との同時蜂起を計画するが、両シチリア遠征に向かったピカーサのグループには期待した農民の呼応はなく惨敗に終わり、ジェノヴァとリヴォルノでの蜂起計画も頓挫する。無謀な蜂起を繰り返すマッツィーニには批判が強まり、袂を分かつ人々も現れるようになった。 両シチリア王国、トスカーナ大公国そして教皇国家など革命の際に憲法を制定したイタリア諸国はいずれもこれを破棄したが、サルデーニャ王国だけは憲法を維持した。1852年にコンヌーピォ(結婚:connubio)と呼ばれる中道右派と中道左派との連合により首相に就任したカミッロ・カヴールは優れた議会操縦術で政治基盤を盤石なものとし、サルデーニャ王国の改革を進めることになる。 1854年にカヴールは修道院を廃止する法案を国王や保守派・教会の抵抗を受けながらも通過させて教会の影響力を著しく弱体化させ、かつ国王に対する議会の優位を確立した。カヴールは通商協定をイギリス、フランス、ドイツ関税同盟そしてオーストリアと結び、さらに産業育成や銀行業務の拡大、鉄道・海運など社会基盤の整備を振興させ、彼の時代にサルデーニャの経済は大いに発展している。また思想的に隔たりのある民主派との協力関係を構築し、マッツィーニから離れたダニエーレ・マニンらが1857年に結成した「イタリア国民協会(イタリア語版)」(Società nazionale) を支援した。 第一次イタリア独立戦争でサルデーニャ王国はオーストリアをイタリアから駆逐する賭けに完全に失敗したが、サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得する望みをなお捨てていなかった。カヴールもまた拡張主義の野望を持っていた。カヴールは独力でロンバルディアを獲得することはできないと考え、オーストリアに対抗するためイギリスとフランスからの援助を期待した。英仏の援助を得るためにクリミア戦争(1854年-1856年)に参戦したが、これは失敗に終わり、パリ講和会議(英語版)ではイタリア問題は無視されてしまった。しかしながら、この戦争によって有用な目的が達成された。すなわち、戦争中に英仏とロシアの両陣営を秤にかけたオーストリアが危険なほどに孤立したからである。
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