「満洲経営」をめぐる意見対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:38 UTC 版)
「桂・ハリマン協定」の記事における「「満洲経営」をめぐる意見対立」の解説
日露戦後の「大陸経営」については、日露戦争の功労によって声望が高まり、首相待望論さえ出ていた児玉源太郎と元老の伊藤博文や井上馨とのあいだで見解が相違し、上記の満洲問題協議会での伊藤・児玉論争はその端的な現れであった。協議会の席で児玉は満洲経営機関を中央に設置すべきことを主張したが、伊藤はそれに対し、満洲はまぎれもなき清国領土であり、そこに「植民地経営」など展開する余地はないとの反対論を唱えた。また、伊藤が韓国への日本人の入植にはほとんど関心を払わなかったのに対し、児玉は平壌以北への日本人の入植事業を検討しており、当時、児玉の幕下にあった新渡戸稲造はドイツ帝国における内国植民政策、すなわち、西プロイセンやポーゼンなどドイツ領ポーランド(いわゆる後の「ポーランド回廊」)へのドイツ系移民の導入を通じたドイツ化政策を参考にしてはどうかという意見を伊藤・児玉双方に建策した。 伊藤や井上は、日米合弁の「満韓鉄道株式会社」を設立して韓国における鉄道経営をも事実上アメリカ側に譲渡しようとしており、南満洲鉄道会社の設立にあたっても、満鉄は文字通りの鉄道経営に限定すべきとの見解(小満鉄主義)に立脚していた。井上は満鉄の清国への返還さえ考えており、それに備えて株主に対する損失補填のための積立金の計上を検討していた。一方、児玉源太郎とその台湾での部下である後藤新平は、満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、満鉄付属地での徴税権や行政権をも担う一大植民会社たるべきだとの見解(満鉄中心主義)を標榜しており、彼らはイギリス東インド会社を範とした満洲経営を進めるべきだとの論に立っていた。 両者の懸隔は大きいが、出先陸軍権力の統制の必要性は伊藤も熟知するところであり、児玉・後藤のコンビが達成した、下関条約による領有開始後10年にして本国からの補充金なしで運営可能となった台湾財政独立の実績は、政府内外から高く評価されたこともあって、伊藤らの小満鉄主義は力を失った。
※この「「満洲経営」をめぐる意見対立」の解説は、「桂・ハリマン協定」の解説の一部です。
「「満洲経営」をめぐる意見対立」を含む「桂・ハリマン協定」の記事については、「桂・ハリマン協定」の概要を参照ください。
- 「満洲経営」をめぐる意見対立のページへのリンク