「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」論説発表
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「清野謙次」の記事における「「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」論説発表」の解説
1926年当時、日本旧石器時代人の論争は小金井良精のアイヌ説にまとまりつつあった。彼は1919年から翌年にかけて、岡山県津雲遺跡で縄文人骨46体を発掘したのを皮切りに、きわめて精密な計画のもとに異常な速さで日本各地の古人骨を入手していく。そして、1926年「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」という論説を発表する。その論説は、彼が収集した日本各地の古人骨を使って人骨の各部位の長さの比率などを測定したもので、「現在の日本人とアイヌ人は、津雲人と比較するとずっと似ている」と主張した。 彼は「感情を入れる余地をなくする為には研究の結果を正確科学の趣旨に基づいて数学的に取り扱うのが宜しい」といい、津雲人、アイヌ人および現代日本人相互の三角関係を求める。すなわち、三者の人骨を計測しモリソン・マルチン氏変差図を作成すると「津雲人は幾分アイヌ人に類似している。そしてアイヌ・畿内人間の距離は殆どアイヌ人・津雲人間の距離と等しい」「元来アイヌ人といい、日本人というのは、今日の体質の人民に対する名称である。日本石器時代人民がこの両者に血を分けたけれども、日本石器時代人民と同体質のものは既に地上に存在せぬ」と主張した。つづいて翌月発表の論文ではハインリッヒ=ミュンターの論文を読み、ポニアトウスキー氏型差公式によるのがもっとも正確であると判断して、三角関係図を作成し、やはり「日本人とアイヌ人は、アイヌ人と津雲人よりもずっと似ている。津雲人は現代の両人種よりもずっと異なっている」ことを確認する。その理由として「現代アイヌ人も現代日本人も元々日本原人なるものがあり、それが進化して、南北における隣接人種との混血によって成ったものだ」としている。 当時日本旧石器時代人の論争で有力だった小金井のアイヌ説を真っ向から否定した清野説は多くの学者に歓迎された。これは時局的に微妙な原日本人論争を避けることができるためとも言われる。実際、清野の論文の後は、学者らは原日本人のことを論文に「書かなくなった」。以降清野説はDNA分析が主流になるまで原日本人論争の主流となった。 アイヌ説の小金井良精は「北方において、いかなる種族と混血して、現今のごときアイヌができたのか、全く不明」であるとの批判をもっていたが、それを公にすることもなく、自説を守り通した。東京大学人類学教室の大島(須田)昭義は清野の研究は「文化をもって石器時代人種を論じ来た者への頂門の一針」であると受け取った。東大人類学教室の中谷治宇二郎は「自分は先史考古学の研究を企てている者の一人であるから、人種論は分からない。また、急いで分かる必要もないと思っている」という。これまでの先住民論争は「常に考古学的、歴史的、民族的な立場」に基づいて行われていた。旧来の方法を捨てて「説は一々の科学的考察の元に到達されたもので、少しの予断も許さない以上、当然の帰結である。清野博士の獲得されたものは学説ではなく事実である」とまで極言した。 明治・大正期に人種論にとりくんでいた形質人類学者は小金井一人であるといっても過言ではなかったし、既に70歳に近い高齢の小金井から次の世代への交代時期が来ていた。したがって、ほぼ同時期に活動を始めた清野謙次と長谷部言人がともにアイヌ説を継承しなかったことは、決定的な意味を持っていた。
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