「派閥と領袖」の意義における変容
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「自由民主党の派閥」の記事における「「派閥と領袖」の意義における変容」の解説
自由民主党内における派閥は保守合同の過程で生じた思想的・政策的・党派的・人的な利害関係により結ばれた集団を背景に1956年12月の総裁選挙で組織された八派閥が原型である。特に、新安保発効と国民皆保険制度成立を下支えした岸信介内閣が総辞職し、池田勇人総裁が誕生した際には対立が鮮明になり、派閥の再編が急速に進んだ。総裁の座を巡る権力闘争により離合集散は繰り返され、中選挙区制に対応できない小派閥は淘汰されてゆき、1970年代後半には五大派閥に収束した。 五大派閥に至る時代には国務大臣を経験した自由民主党内実力者が派閥会長に就いており、総裁の座を争った。特に、三木武夫内閣下で発覚したロッキード事件では、田中角栄との阿波戦争における影響もあり、派閥の争いは熾烈を極めた。 1980年の大平正芳総裁死去を受けた後継総裁に派閥会長でない鈴木善幸が話し合いで選出され、結党以来初となる異例事態に至り、総主流派体制が敷かれ五大派閥による争いの沈静化が進んだ。また、竹下登内閣下で発覚したリクルート事件では、総裁を始め派閥領袖を含む自由民主党内実力者たちが軒並み事件に関わっていたことから、1989年に再び派閥会長でない中曽根派の宇野宗佑総裁が誕生し、宇野内閣崩壊後には河本派の海部俊樹総裁が続いた。さらに、自由民主党が下野した1993年に宮澤派の河野洋平総裁、1995年に小渕派の橋本龍太郎総裁が誕生するに至り、総裁の座は派閥会長が競うものから選挙における顔としての価値に重きが置かれるものへと変貌した。この間に参議院議員を重視した竹下登がほぼ全派閥から支持を集めるようになり、長期に亘る「経世会支配」とその後に続く「清和会支配」の実現に至った。 そして、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へと変わり、候補者選定過程で自由民主党本部の存在価値が高まった。このことにより総裁の座を争うための集団からポスト獲得互助組織へと派閥における存在目的の変質が見て取れるように、会長総裁分離が進行している。
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