「戦艦」摂津
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1909年(明治42年)1月18日、摂津は呉工廠で起工した。同年2月12日、日本海軍は横須賀海軍工廠の伊号戦艦を「河内」、呉海軍工廠の呂号戦艦を「摂津」と呼称することを内定する。1911年(明治44年)3月30日、摂津は進水した。明治天皇皇太子(のち大正天皇)は戦艦「鹿島」(供奉艦「薩摩」)に乗艦して呉軍港に到着、摂津進水式に臨席した。同日附で呂号戦艦は制式に攝津と命名される。戦艦に類別された。1912年(明治45年)7月1日、摂津は竣工した。竣工時、摂津国一宮の住吉大社より、同神社の約1/40模型が「摂津」に寄贈された。 1914年(大正3年)3月下旬、大正天皇皇太子(当時13歳の裕仁親王。のち昭和天皇)および弟宮(雍仁親王、宣仁親王)は江田島に行啓することになった。3月20日、三宮は御召艦「薩摩」に乗艦、「摂津」は先導艦、「石見」は供奉艦を務めた。航海中の3月22日には軍艦3隻(筑波、金剛、周防)が合流し、御召艦以下と演習をおこなった。 1918年(大正7年)7月12日、徳山湾には艦艇多数(山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)が停泊していた。この日の午後3時57分、姉妹艦「河内」が爆沈した。 1919年(大正8年)10月下旬、横浜沖合で観艦式が行われ、同式典で「摂津」は大正天皇の御召艦となる。10月23日午前、大正天皇は横浜港で摂津に乗艦、館山湾で仮泊する。10月24日、大正天皇(御召艦摂津)は海軍特別大演習を統裁するが、戦艦「日向」で砲塔爆発事故、駆逐艦「浜風」で艦橋損傷事故が発生した。10月25日、大正天皇は横浜港で「摂津」を退艦、お召し列車で東京に戻った。10月28日午前8時45分、大正天皇は横浜港に到着。御召艦「摂津」に乗艦した。式典にあたり、皇太子(当時18歳。のち昭和天皇)は戦艦「扶桑」から「摂津」に移乗し、天皇を出迎えた。供奉艦は平戸・香取・筑摩・満州。午後2時30分、「摂津」は横浜港に到着し、天皇・皇太子は退艦した。
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