「戦艦」摂津とは? わかりやすく解説

「戦艦」摂津

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 18:20 UTC 版)

摂津 (標的艦)」の記事における「「戦艦」摂津」の解説

1909年明治42年1月18日摂津呉工廠起工した同年2月12日日本海軍横須賀海軍工廠の伊号戦艦を「河内」、呉海軍工廠の呂号戦艦を「摂津」と呼称することを内定する1911年明治44年3月30日摂津進水した明治天皇皇太子(のち大正天皇)は戦艦鹿島」(供奉艦「薩摩」)に乗艦して呉軍港に到着摂津進水式臨席した。同日附で呂号戦艦制式攝津命名される戦艦類別された。1912年明治45年7月1日摂津竣工した竣工時、摂津国一宮住吉大社より、同神社の約1/40模型が「摂津」に寄贈された。 1914年大正3年3月下旬大正天皇皇太子当時13歳裕仁親王。のち昭和天皇)および弟宮雍仁親王宣仁親王)は江田島行啓することになった3月20日三宮御召艦「薩摩」に乗艦、「摂津」は先導艦、「石見」は供奉艦を務めた航海中の3月22日には軍艦3隻(筑波金剛周防)が合流し御召艦以下と演習おこなった1918年大正7年7月12日徳山湾には艦艇多数山城扶桑伊勢摂津河内利根、他駆逐艦)が停泊していた。この日の午後3時57分、姉妹艦河内」が爆沈した。 1919年大正8年10月下旬横浜沖合観艦式が行われ、同式典で「摂津」は大正天皇御召艦となる。10月23日午前大正天皇横浜港摂津乗艦館山湾仮泊する。10月24日大正天皇御召摂津)は海軍別大演習統裁するが、戦艦日向」で砲塔爆発事故駆逐艦浜風」で艦橋損傷事故発生した10月25日大正天皇横浜港で「摂津」を退艦、お召し列車東京戻った10月28日午前8時45分大正天皇横浜港到着御召艦「摂津」に乗艦した。式典にあたり皇太子当時18歳。のち昭和天皇)は戦艦扶桑」から「摂津」に移乗し天皇出迎えた供奉艦は平戸香取筑摩満州午後2時30分、「摂津」は横浜港到着し天皇皇太子は退艦した。

※この「「戦艦」摂津」の解説は、「摂津 (標的艦)」の解説の一部です。
「「戦艦」摂津」を含む「摂津 (標的艦)」の記事については、「摂津 (標的艦)」の概要を参照ください。

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