「内政省」設置法案の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 01:49 UTC 版)
1956年(昭和31年)、自治庁と建設省などを統合して、内政省を設置するという行政審議会の答申により、第3次鳩山一郎内閣によって内政省設置法案が第24回国会に提出された。自治庁にいた旧内務官僚たちは、当時、行政管理庁長官であった河野一郎を味方につけて、「内政省は旧内務省の復活」であるとして猛反発した学者グループを強引にねじ伏せることに成功。その後、旧内務官僚たちは省庁の垣根を越えて、すさまじい根回しを各所で行い、法案提出までこぎつけていた。自治庁の幹部たちの狙いは、旧内務省の失地回復と、建設省が握っている膨大な額の公共事業費が目当てであり、金の威力で地方自治体への統制力強化を強めるという深謀遠慮があった。また、それに付随して、官選知事制度(地方長官任命制度)の復活を実現したいという〝夢よもう一度〟の野心もひそんでいた。 ところが、自治庁と同じ旧内務省系官庁である建設省が猛反発した。建設省は事務官と技官の二派に分かれており、技官は旧内務省土木局時代に冷遇されて、昇進しても課長止まりで、局長にはなれなかった。それが、戦後になって日本がGHQの占領統治下に置かれると状況が一変し、自分たちを冷遇していた内務省は解体・廃止され、新設された建設省では、局長ポストの半分が技官となり、次官ポストも事務官と技官が交代で就任するという不文律までできていた。建設省の技官にしてみれば、旧内務省の直系である自治庁との統合は、また事務官に頭をおさえられることと同義であり、受け入れられるものではなかったのである。建設省の官僚は、技官の人数が事務官を圧倒しており、技官に乗せられた馬場元治建設大臣は、閣議で決定していた内政省設置法案に「職を賭しても絶対反対する」と表明。建設省は、林野・港湾・水道・水力発電・運輸などの諸行政を統合する国土省設置法案を構想し、自治庁への対抗心をむき出しにしていた。 自治庁側は、内務省出身の国会議員に働きかけをおこない、法案作成の責任官庁である行政管理庁のお株を奪うかたちで、内政省設置法案の成立に総力を挙げており、行政管理庁の総務課員をカン詰めにして作文をしたという。この際、内政省設置法案に反対していたはずの建設省の課長が密かに自治庁に出向いて、法案作成に協力していたという逸話がある。建設省でも旧内務官僚の事務官は、内政省設置法案に賛成しており、建設大臣や技官を裏切るかたちで、自治庁に内通していた。 内政省設置法案は自民党の多数と社会党右派の支持を受けていたが、建設省の技官は国土省設置法案を国会議員に働きかけ、社会党左派のみならず、自民党の一部からも支持を受けていた。内政省設置法案は、政局を不安定なものとし、鳩山内閣の政権運営にも影響を与えたため、内閣自ら撤回することになった。その後、1958年(昭和33年)に、内政省設置法案は第1次岸内閣 (改造)により廃案となった。
※この「「内政省」設置法案の攻防」の解説は、「自治省」の解説の一部です。
「「内政省」設置法案の攻防」を含む「自治省」の記事については、「自治省」の概要を参照ください。
- 「内政省」設置法案の攻防のページへのリンク